表紙や文章描写はちょっと怪談テイストだが、自分の障害すらも利用して悪党相手にしたたかに生きる盲目の楽師の復讐劇を描いた歴史ミステリーだった。
民国時代初頭の北平(現在の北京)、盲目の楽師・聞桑生は師匠の独眼竜とともに琴の弾き語りなどをしながら生活していた。ある日、独眼竜は何者かと口論した後、聞桑生が不在の夜に火事で死ぬ。死んだのが流浪の楽師ということもあり、警察はろくな捜査をせず失火による事故死として処理する。一人になってしまった聞桑生は、事件当日に師匠と会話していた男を探して師匠の敵を討つため、夜な夜な開かれる非合法の「鬼市」(闇市)で情報を集める。高価な代物もいわくつきの物も何でも売買されるその場所で、彼は「報喪烏」という不吉な名を名乗り、裏社会のボスや名妓、さらには官憲たちとも渡り合っていく。
目が見えないというハンディキャップを持つ聞桑生は、報喪烏の時にはできるだけ他人に自分が盲目と悟られないように振る舞い、悪党相手には決して弱みを見せようとはしない。そして視覚の代わりに常人より優れている嗅覚、聴覚、触覚を使って他人の行動を言い当ててみせる姿はさしずめ盲目のホームズだ。腕っぷしもあるが、直接殴り合ったりすると負けてしまうので、喧嘩になる前に言葉で相手を言いくるめる手腕も見事だ。
才能や度胸が人並み以上の聞桑生には彼を慕う仲間が集まり、事件の真相に近付くにつれて一癖も二癖もある裏社会の人間が次々に彼に協力する。しかし一方、目立ちすぎたせいで鬼市を牛耳る「死人王」に目を付けられた彼は、30日以内に師匠殺しの犯人を探し出せなければその配下になるという条件を飲まなければならなくなる。
聞桑生が次に誰と出会うのか分からない、次に何と遭遇するのか分からないという状況をつくるのが上手く、また各キャラクターのほどほどに現実離れした設定も上手い。物の手触り、人の声、珍しい匂いなどを頼りに真相に近付くという、目が駄目ならそれ以外を活用するしかない当たり前の展開なのだが、一般人には無関係の裏社会を盲目の男が、一般人以上に慣れた様子で渡り歩いていくというアンバランスさが本作最大の特徴であるだろう。しかも聞桑生がなかなか親切で、他人に助けられるどころか逆に鬼市での買い物の仕方などを人に教えてくれるのだ。
続刊を匂わせる終わり方をしたのが気になるが、まさか師匠の敵討ちから民国時代の歴史的陰謀に関わる内容になってくるのだろうか。
作者の陸燁華と言えば、ユーモアミステリーが主で、特にキャラにくどい掛け合いをやらせるのが上手というイメージなのだが、今回はそのような笑いの要素が少ない。本作では、日常に何か異常が起きているはずなのに誰も核心に触れられないという奇妙な空気感を描き出している。第三者から見ると特に大きな事件が起きていないので、長編の日常ミステリー小説だと言える。
コーヒー専門雑誌の会社で働く編集者の張悠悠は、担当しているコラムの執筆者が急病になり、このままでは誌面に穴を空けてしまう。締め切りまでもう時間がないというところに差出人不明の原稿が届く。内容は短編のミステリー小説で、同じ部屋に侵入した泥棒二人が殺し合うという中途半端なところで終わっていた。同僚の江月に読ませたところ、悪くはないということなので、それを載せることを決定。以降彼女のもとには毎週、作者不明で作品同士に関連性が見えない短編ミステリーが寄せられる。そしてコーヒー専門雑誌にミステリーを載せた張悠悠の社内での評判は高まり、次期編集長を期待されるようになる。だが張悠悠の周囲の人間は、差出人も意図も不明な投稿に不安を覚え、また作品内の事件が現実の事件とわずかにリンクしているように見えることにも疑念を抱く。投稿者の目的は一体なんなのか。
・変な原稿が届くだけ
誌面の埋め合わせを探していた編集者の手元に差出人不明の投稿原稿が届くという、いかにも都合の良い展開は誰に対してメリットがあるのかと考えたら、答えは自ずと出てくる。
張悠悠にはいかにも怪しい要素がてんこもりで、彼女が作品の中心人物であることは最初から明らかなのだが、この「事件がない事件」における立場が不明確だ。それが探偵(喫茶店店長)の推理によって彼女の役割が明瞭になり、また無関係に見えた短編同士にわざとらしいほどの関連性が見える。かくしてこの「事件」は、短編ミステリーを書いたのは誰かといういとも単純な作者探しに着地するのだが、探偵が指摘する動機が非常にドメスティックかつグロテスクで、場の雰囲気を支配する説得力がある。この推理に説得力を持たせているのは、中国人ひいては世界中の家庭が昔から持つ美しい家族愛だ。しかし、現代の上海を舞台にした作品にとって、伝統が事件の核心となるのは不自然であるため、よく組み立てられた推理も結局は一蹴される。
まだページが残っている後半で披露される推理はたいてい覆されるものであり、本作でも探偵自身が終盤に自らの推理の欠点を列挙して否定している。だがメタ的に本作を見ると、推理が失敗している一番の理由は「作品のテーマと合っていない」ということに尽きる。
・女性の活躍が謎に?
本書で重点的に描かれているのは大都市上海に生きる張悠悠の奮闘ぶりで、彼女の周りには会社での立場、夫との仲、さらには経済や生活面など、現代に働く女性にある程度共通する様々な問題が取り巻いている。本書は単純に女性が主人公なのではなく、女性編集者が自らの力を発揮してより良い生活を掴むところを描いた日常ミステリー小説なのだ。
だから探偵が自らの推理を翻し、再度披露した第二の推理で明かされる真実こそ本作の最適解で、それは張悠悠への表彰になる。しかし作者は第三の推理の機会を読者に与えている。
三人称視点で書かれている本書でこの第二の推理を採用する場合、アンフェアというか確実に作者のミスとも言える矛盾点が無視できなくなる。だが作者の正しさを信じて第三の推理を開始すれば、そこから導き出される犯人こそ本書の真の解答となる。しかしそれは張悠悠の努力を否定し、栄誉を剥奪することになる。
作者の陸燁華は本書の扉に「本書を妻に捧げる」と書いてある。それがなぜ女性編集者の力不足を暗示する結末にしたのか。まだ女性が十分に活躍できない現実や、男性側のエゴイズムを書いて、作品を決して円満に終わらせない狙いがあったのかもしれない。
・突然推理を始める探偵
本作は「突然推理」という概念を提起している。実際に死体も出てきておらず、事件らしい事件すら起きていないのに突然誰かが推理を始めて、隠されていた真実を明らかにするというものだ。作者は「突然推理」は自分が初めて提起したものではないとし、梓崎優の『凍れるルーシー』などもそうだと挙げている。誰もが漠然と意識しているが明確化されていなかった謎は、誰かに推理されることで初めて形を得るが、被害者も加害者もいない事件では何よりも探偵の発言権が強くなり、探偵によって場がコントロールされる恐れがある。だが本作では突然推理を始めた探偵も「犯人」に出し抜かれており、日常ミステリーにおける探偵の強制力の弱さを痛快に描いている。
本書を出版した人民文学出版社の上海九九読書人の「黒猫文庫」というレーベルからは今後も中国ミステリーが出る予定だが、1作目にいきなり作者のこれまでのイメージを覆す作品を持ってきてくれたので、後続の作品が楽しみだ。
『笨偵探』、直訳すれば「バカ探偵」という意味だが、この作品の中でバカなのは探偵一人ではないし、この「バカ」が探偵だけを意味しているわけでもない。ストーリー自体が荒唐無稽でバカげていて、どうしようもない連中が一箇所に集まったことで起こる喜劇なのだが、複数の人生に不幸が生じているので軽々しく笑えない。結構一筋縄ではいかないユーモアミステリーだ。『人狼ゲーム』をモチーフにしているらしいが、そのゲームのことを全然知らないので本作の楽しみをだいぶ見逃してしまっているかもしれない。
自称「名探偵」の田豊大は、浮気調査のターゲット・韓国棟を尾行するために彼と一緒に観光バスに乗る。だがそこに偶然乗り合わせた自称「名探偵の助手」の少女・羅小梅らに自分の正体をバラされ、韓国棟に窃盗犯と間違われて騒動になる。しかもバスがパトカーと事故を起こし、乗客全員がホテルに避難することになり、尾行どころではなくなる。さらに事故を起こしたパトカーに乗っていたのは田豊大の天敵の警官・薛飛で、彼はホテルで事件が起こるたびに最も怪しい容疑者とされてしまう。ホテルの宿泊客のほぼ全員が後ろめたい過去を持ち、誰もが探偵を都合の良い犯人に仕立て上げようという四面楚歌の中、田豊大は事件を解決できるのか。
そもそも何の事件の捜査だったか……と忘れてしまうぐらい、クローズドサークル状態のホテルで色んな問題が現れて、各人物の正体が明らかになる。警官のフリをした指名手配犯、ミュージシャンに見える麻薬の売人、画家を名乗る殺し屋などなど、ほぼ全員が悪人という環境だ。さらに韓国棟はそもそも製薬企業にコネ入社した幹部社員で、薬事法違反で逮捕されるのを恐れ、逆に会社の機密情報を盗み出して高跳びしようとしている人物だ。浮気よりよほど大きな秘密を抱えていて、その秘密のために彼もまた他の宿泊客の思惑に巻き込まれていく。
本作では警官も探偵の味方ではなく、田豊大と少なくない因縁を持つ薛飛は「探偵は違法だ」と正論で攻めてきて聞く耳を持たないし、積極的に逮捕しようとしてくる。
田豊大は捜査に協力的な人物がほぼいないアウェイで推理を展開しなければいけない。なのに彼の披露する推理はことごとく外れているばかりか、彼を陥れようとする人物や彼自身の推理ミス、そして不運によって、自分が犯人だと主張する結果となってしまう。
本作では、「名探偵だと言い張る凡人」に対する「イジメ」が、ミステリー小説の定石に従ってこれでもかと行われる。冤罪になろうが犯人に間違われ暴力を振るわれようが決してへこたれない田豊大の打たれ強さが本作の救いではあるのだが、総掛かりで自分の推理の欠点を指摘されたり揚げ足を取られたりする彼を見ていると、新堂冬樹小説の暴力描写を読んでいる時のような乾いた笑いが出てくる。
そして虐げられる彼を通して見えてくるのは、これまで推理の間違いを犯して、一時的とはいえ他人を犯人扱いしても謝らずに責任を取ることがなかった無数の探偵の姿で、彼の災難はそれらの被害者に対する罪滅ぼしだ。
全員が田豊大に悪意を持っている中、唯一の味方と言っていいのが自称助手の羅小梅だ。しかし勝手に助手を名乗る羅小梅に田豊大は冷たく、羅小梅はマイペースにどんどん行動するという凸凹コンビぶりを発揮。こうして見ると田豊大の不幸は全て彼自身が原因であり、行動のミスに比べれば推理のミスなど取るに足らないことに思える。結局彼が「バカ」なのは「探偵」であること以前に、疑われたり信頼されなくなる言動にあり、「名探偵」であるという自負やプライドが自身をますます窮地に追い込む。
ところで作者の亮亮には「第10回:中国ミステリ小説家・亮亮インタビュー」でインタビューしたことがある。
その後ほとんど長編小説を発表しておらず、また作品が映像化されるという話もあったので、てっきり脚本家に転向したかと思っていた。しかし本作あとがきによれば、映像化予定の脚本製作が難航し、流れてしまったらしい。本作も映像化には向いていそうだが、イジメられる田豊大を映像では見たくはないなぁという思いもある。
本作はユーモアミステリーという括りになるのだろうが、実際はもっと怖いブラックユーモアサスペンスだ。推理に誰も耳を傾けず、捜査に誰も協力してくれないというアゲインストな環境でもめげずに探偵として振る舞う田豊大は、やはり「名探偵」の素質があるのかもしれない。
中国唐代を舞台にした大人気歴史ミステリーシリーズ『大唐懸疑録』の外伝に当たるシリーズの第1作目。本編『大唐懸疑録』は憲宗時代(805~820年)の815年前後が舞台だが、本作は武則天が統治している武周王朝時代(690~705年)の話であり、直接的な関係はなさそうだ。主人公はタイトルにある通り、唐代に実在した政治家で、後世に名探偵として数多くの作品に生き続ける狄仁傑だ。
ちなみに本編『大唐懸疑録』の第1巻『蘭亭序コード』は今年和訳が発売されるようだ。
時の皇帝から「国老」と呼ばれるほど信頼を得ている狄仁傑は、老齢を理由に引退して故郷に帰る要請が武則天にようやく聞き入れられた。しかしその決定の背後に、武則天の愛人張昌宗らの存在を感じ取る。宮中の権力を牛耳ろうと画策している彼らが、狄仁傑を追い出したのではないか。部下の将軍袁従英らと故郷の井州に戻る道中、藍玉観という古びた道観で暮らしていた韓斌という少年に出会い、そこで一夜を過ごす。井州に戻った狄仁傑を待っていたのは旧友の死だった。恨英山荘を所持していた旧友が謎の死を遂げており、その山荘は現在、旧友の年下の妻で、怪しい美貌を持つ馮丹青が支配していた。さらには先日無人だったはずの藍玉観で、数十人の道士の惨殺死体が見つかる。しかも一連の事件に狄仁傑の息子の狄景暉が関わっているようだ。数々の思惑が混じり合う井州に、皇帝の使者として張昌宗もやって来て、国を巻き込んだ陰謀が見えてくる。
タイトルの「最後的(最後の)」とは「晩年」を意味しているようで、1巻の時点で狄仁傑は享年の70歳近い。このシリーズは、狄仁傑が亡くなる最後の年(700年?)に起こる数々の怪事件や陰謀など27の謎を狄仁傑らが解決するという内容だ。狄仁傑没後の705年、張昌宗は殺され、武則天は退位するという歴史的事実があり、このシリーズは王朝が武周から唐に復活するまでの布石を書き綴っているのかもしれない。
狄仁傑が70歳近い高齢ということもあり、荒事はもっぱら袁従英の仕事で、移動する時は従者に馬を引いてもらうのだが、それでもなおかくしゃくとしていて、知識や経験や弁舌の他に、老人独特の凄みを武器に張昌宗ら奸臣を相手に一歩も引かない姿は、まさに老探偵と言った風で、脇を固める部下たちの頼もしさも加わり非常に安心する。
この本、武則天とその男妾や狄景暉夫婦、そして馮丹青といった男女が愛に狂い愛のために苦しむ様子を描いているが、その一方で狄仁傑側では男同士の友情や忠義を丹念に描いている。
実の親子以上の絆で結ばれている狄仁傑と袁従英、いきなり義兄弟の契りを結ぶ袁従英と沈槐の武将コンビ、袁従英のことを兄と呼んで慕う韓斌、父親に対してコンプレックスを持っているためその父親に重宝されている袁従英を目の敵にする狄景暉。だいたい袁従英が関わっているのだが、女性探偵・裴玄静が活躍する本編『大唐懸疑録』と違って、全体的に男臭い。そっち系の人気を得ようとしたのかは不明だが、本編とは違った面白みがある。
なんと2巻では、同じ場所に左遷されたことですっかり打ち解け、お互い憎めない間柄になった袁従英と狄景暉が雪の庭州(今の新疆らへん?)にいるところから始まるらしい。そして洛陽では、「生死簿(閻魔帳)」の噂がますます大きくなり、それにまつわる童謡が広がっているという。袁従英に付き添う韓斌の出自にも謎がありそうだ。また不肖の息子狄景暉は終盤で更生したようだが、奢侈好きの性根は直っていないみたいなので左遷場所でも何か問題を起こすかもしれない。左遷コンビにもまだ活躍の場があるだろう。
狄景暉の史実(ウィキペディア)を調べたら、後に結構ひどい所業をして人々から恨まれたようだ。歴史上の人物が多数登場する本シリーズの物語は、史実と同じ結末に収束するのか。それとも現代に伝わっている異なる伝説とは解釈を出すのか。今のところ5巻まで出ているこのシリーズ、終わるのは何巻になるだろうか……
本書『5月14日,流星雨降落土抜鼠鎮(5月14日に土抜鼠鎮に流星雨が降った)』の帯には次のような文章が書かれている。
文章力は東野圭吾や湊かなえに匹敵する。
不条理で超現実的な手堅い傑作。
読者から中国版『告白』と評価される。
中国のミステリー小説が、東野圭吾やその代表作『白夜行』『容疑者Xの献身』などを比較対象にするのは珍しくないが、湊かなえや『告白』が持ち出されているのを見るのはこれが初めてだ。
その他、ミステリー小説には似つかわしくないポップな表紙、まるで日本の小説のような長いタイトルに興味が惹かれて買ってみたのだが、これがなかなか面白かった。ちなみに土抜鼠とは中国語でマーモットを意味し、土抜鼠鎮という鎮(町のような行政単位)は当然現実にはない。
土抜鼠鎮人民医院に務める医者の孔子には悪癖があった。マンションの部屋から望遠鏡で向かいのマンションの各部屋を覗き見するのだ。中でも彼は気になる一人暮らしの女性に「竜舌蘭」という名前を付けて、実際に会って会話をするストーカー行為を行うほどのめり込んでいった。ある日、竜舌蘭が部屋に男性を呼び、そのまま一夜を共に過ごす様子を見て孔医師はショックを受ける。だが当日の深夜に、人目を避けて大きなゴミ袋を捨てる竜舌蘭を見た孔医師は、重大な事件の発生を想起して怯える。
費菲は10年前に娘の費南雪を学校の教師に殺されており、逃亡した教師「π先生(パイ先生)」をずっと追っていた。そして娘が10年前の5月14日に書いた日記からπ先生の現在の居場所を突き止めた彼女は、名を変えて土抜鼠鎮の森林保護員として働くπ先生と接触し、部屋に連れ込むことに成功したのだった。
本作は10年前の5月14日に土抜鼠鎮に流星雨が降った夜に端を発する殺人事件の関係者が過去を供述する、章ごとに異なる視点で展開される一人称小説だ。
覗き見が原因で事件の一端に触れてしまった孔医師、復讐に燃える母親の費菲、費菲に殺されて生首になってしまったπ先生、費南雪の元カレで現在はペドフィリア撲滅組織に属する井炎、そして10年前に殺された費南雪だ。5人はそれぞれ、他人には語れない自分の過去を告白するとともに自分なりの真相を語り、10年前の費南雪殺人事件にどんどん肉付けをしていく。そして、最終的に被害者である費南雪本人の口から当時の真実、さらに孔医師を除く3人への思い出が語られる。
各人物の嘘偽りない本音の吐露が、人間の醜い部分をさらけ出してくれていてとても面白かった。昔は薬物依存者で費南雪を全然育てられていなかったというのに、娘を殺された恨みだけは人一倍持っている費菲の身勝手さと愛情。教師時代に生徒の費南雪を個人的に金銭援助し、最終的に大金を恐喝されてしまい、現在は生首になり冷蔵庫に入れられているπ先生へ向けられる軽蔑と同情。そしてヤク中の母親のせいで金銭面でも愛情面でも全く恵まれず、愛する井炎のためにこれまで散々無償援助をしてくれたπ先生を道具とみなして切り捨てようとする費南雪のワガママと不幸。
人間として誰もが他者に持っている感情的な矛盾や冷酷な優先順位を描いている。各人物の造形や過去は不幸であるがゆえにありきたりなのかもしれないが、ユーモアがある会話やエピソードがたびたび挟まれることで読んでいて全然飽きず、結局1日で読んでしまった。
帯で書かれている中国版『告白』の要素とは、章ごとに物語を見る視点が切り替わるところだろうか。母親が娘のかたきを討つという点だろうか。湊かなえのような文章力も当然含まれるのだろうか(手元に『告白』がないので比べようがないが、ウィキペディアを読むと死体を冷蔵庫にしまわれる女の子がいるそうだ)。そして、子ども時代の費南雪と井炎が貧困でも互いに助け合う様子は、東野圭吾の『白夜行』のリスペクトだろうか。
仮に作者がその有名作家から特に影響を受けて、それを意識して作品を執筆していても、出版社からオリジナルとなった名前を出されてしまったら、作品がまるで二次創作のようにしか思えなくなってしまう。それとも出版社や作者は、読者に元ネタ探しをさせて、「分かってやってますよ」感を出すのが目的だろうか。
作者も出版社もリスペクト精神を示すようにあえて正直に元ネタ要素をそのまま残しているのかもしれないが、それが将来ヒットしたときの盗作疑惑につながるので、「原作」要素をもう少し隠すというか作品をより磨いて、その良さを真に自分のものにしてほしい。