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栖鄭 椎(すてい しい)
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非公開
誕生日:
1983/06/25
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契約社員
趣味:
ビルバク
自己紹介:
 24歳、独身。人形のルリと二人暮し。契約社員で素人作家。どうしてもっと人の心を動かすものを俺は書けないんだろう。いつも悩んでいる……ただの筋少ファン。



副管理人 阿井幸作(あい こうさく)

 28歳、独身。北京に在住している、怪談とラヴクラフトが好きな元留学生・現社会人。中国で面白い小説(特に推理と怪奇)がないかと探しているが難航中。

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このコラムには映画『少年的你』及び小説『少年的你,如此美麗』などの作品のネタバレが含まれています。あと映画の各人物のセリフはうろ覚えなので、結構間違っているかもしれない。





先日、翻訳ミステリー大賞シンジケートに東野圭吾の『白夜行』『容疑者Xの献身』及び他作品からの盗作疑惑がかけられている『少年的你』の原作小説及び映画に関するコラムを書いた。


  


64回:中国小説界に深く根を張る東野圭吾



 


 そこではこれらの作品をめぐる問題を中心に書いたため、映画自体の評価ができなかった。様々な理由で散々叩かれている映画であるが、それでも面白い点は多々あったのでブログでは映画を中心にレビューを書いていきたい。改めて映画のあらすじを紹介しよう。


 





2011年の安橋(架空の街。モデルは重慶)、大学受験を間近に控えた高校3年生の陳念は、クラスメイトの魏莱らからひどいイジメに遭って自殺した胡暁蝶に同情を示したことで、次のイジメのターゲットになる。生来我慢強く成績優秀な彼女は、受験に合格すれば北京の大学に行けると信じてイジメに耐え、受験への影響を心配して警察に胡暁蝶の自殺の原因を言わなかった。


ある日、道端で不良同士の喧嘩を目撃し、警察に通報したところを見つかってしまった陳念は、一方的にやられていた劉北山(小説では北野)と無理やりキスをさせられる。結果的に彼をリンチから救った形になり、それ以降彼女の前には劉北山が現れるようになる。そして警察官の鄭易にイジメの事実を話し、魏莱らが停学処分を受けたことで、ようやく落ち着いた学園生活が送れるようになったのもつかの間、陳念への憎しみを募らせた魏莱らがますます苛烈な方法を取るようになる。母親が出稼ぎに行っていて周囲に頼れる人が誰もいない陳念は、学校にも行かず川辺の小屋に住む劉北山にボディーガードを頼む。


それから陳念は劉北山に登下校を遠巻きに見守ってもらいながら、放課後は彼とバイクに乗ったり街を出歩いたりし、夜は彼の家で受験勉強をし、初めての青春を楽しむ。だが劉北山が強姦事件の容疑者として警察に勾留されていた日に、陳念の前に魏莱らが現れる


大学受験当日、郊外で魏莱の死体が見つかる。警察は先日魏莱に暴行された陳念を容疑者として捜査を進める。このままでは陳念が捕まることに気付いた劉北山は、強姦犯に扮して警察官の前で陳念を襲うことで、彼女を被害者とし、さらに自分が犯罪者だと信じ込ませることができると考える。計画実行の日、警察が来るまでの間、二人は全てが終わった後に再会することを誓うのだった。





 


 


正直な話、イジメをテーマにした暗い映画なんか見たくなかったので、検証するという目的がなければ、いくら話題になろうが絶対見なかっただろう。私は映画原作小説という順に見ていったのだが、映画化するに当たって改変された点が多々ある。思いつくものをここに挙げていこう。


 


 


・小説では陳念が吃音気味で、それが原因でクラスメイトにいじめられたり、劉北山にからかわれる。映画ではそういう描写はなし。


・陳念のパートナーの名前が、小説では北野、映画では劉北山になっていた。


・映画冒頭で陳念が飛び降り自殺した胡暁蝶の死体に上着をかぶせてやり、学生たちがスマホで彼女の死体を撮影するのを防ぐ。


・小説・映画ともに陳念は母子家庭。しかし映画では母親は商売で失敗しており、債権者から逃げるために外地へ出稼ぎしている。だが親子関係は良好。


・映画では陳念が魏莱を殺す。


・映画では陳念と劉北山が共に服役する。


 


他に映画で気になる点


・映画は舞台が2011年なのだが高校生全員がスマホを持っていて、微信(ウィーチャット。LINEみたいなもの)で連絡を取り合っているのが不自然。二つとも2011年当時からあったようだが、そこまで普及していなかったはず。


・陳念が情状酌量されて4年の刑期で出てこられるので、劉北山の行為の重さが可視化されて軽くなってしまう。


 


・イジメ加害者魏莱への同情


 


映画は、大学受験のプレッシャーや家庭内の問題が学生間のイジメを招くという考えを基にし、加害者側の立場を通してイジメの原因を描いている。原作より社会性やテーマ性が高くなった映画で重要になるのが魏莱の役どころ。


 


この魏莱という女生徒は美人で勉強もでき社交性もあり、一見優等生に見える。だが、イジメグループの主犯としてクラスメイトを自殺に追い込んでいるのだから悪魔みたいな女だ。ターゲットを陳念に替えてもその苛烈さは変わらず、陳念を学校の階段から蹴り落とすのは序の口、陳念にイジメをバラされて停学になってからは仲間とともに陳念の家の前に大量のハムスター(何に使うつもりだったのか。食わせる気だったのか?)を持って現れる。これによって陳念が劉北山にボディーガードを頼むことになり、魏莱も一度劉北山から「警告」を貰っているのだが、彼女はそれで諦めるような人間ではなかった。劉北山不在時を狙い、仲間とともに陳念を暴行、彼女を丸坊主にし、その様子を録画するのだ。


 


半グレみたいな暴力性を持っている彼女の真の異常性が発揮されるのはここからだ。


 


丸坊主にさせられただけで何とか助かった陳念は翌日、魏莱に会いに行く。すると魏莱は今までの態度とは打って変わって、昨夜の件を警察に言わないよう陳念に懇願する。裕福な家庭で育った彼女は、去年大学受験に失敗したせいで(ということは陳念より一つ年上?)父親から全く口を利いてもらえておらず、先日の停学の件もあってこれ以上受験に不利になるわけにはいけないのだ。


 


魏莱が単に表と裏の顔の使い分けが上手い不良ではないということは、胡暁蝶自殺の捜査で警察の取り調べを受けている時から明らかだ。失敗を許さない冷酷な父親と、娘のやっていることを全く知ろうとせずただ溺愛する母親に育てられた魏莱は、学校では優秀な成績を収める一方、夜は自由にクラブを周り、悪事に手を染める友人まで持つかなりの問題児になっている。受験失敗後に変貌したのか、元々そうだったのかは分からないが、クラスメイトを自殺させても全く良心の呵責を感じず、自分の行為の重大性を理解していない彼女は、これまで問題と真っ向から向き合ってこなかったのだろう。そこに現れたのが、劉北山に守ってもらって魏莱たちのイジメに耐えた陳念だ。


陳念が真実を語れば受験どころではなくなる。というより、受験を受けられないこと以上の問題がたくさんあるのだが、魏莱にとって目下の要件は受験なので、陳念には何が何でも黙ってもらわないといけない。お金ならいくらでも払うからと陳念にすがりつく彼女には謝罪の気持ちなんかないし、自分のしたことの後悔もしていないのだろう。


 


そして陳念は、喋らない代わりに二度と自分の前に姿を見せるなと伝える。「耐える人」陳念にとって重要なのはお金でも謝罪でもなく、受験に合格して北京に行くことだから、魏莱など眼中にないのだ。


陳念から警察に通報しない約束をもらった魏莱は、さっきまでの泣き顔が一転して安心した表情になり、石段を下りる陳念に親しげに話しかけ、ついには「今までのことは水に流して友達になろう」と言う。


「お母さんも言ってたんだ。喧嘩をしなきゃ本当の友達になれないって」


これは煽っているのではなく、彼女は自分が丸刈りにした少女に対して本心からこう言うのだ。もちろん陳念は無視を決め込む。だが魏莱からすれば、この話はさっきで終わったのだから、まだ怒っているのはおかしい。だから続けて、「本当にお金はいらないの?」と心配そうに聞く。しかしこれがいけなかった。


母親が商売に失敗して陳念の家が貧乏なのは魏莱も知っている。だから彼女は、「お金があったらあんたのお母さんも楽になるでしょ」と親身になって問いかける。


だが、魏莱の口から母のことが出たことで陳念は頭に血が上り、とうとう魏莱を石段から突き落とす。石段を転がり、頭を打って絶命する魏莱。彼女は最期まで何が悪かったのかを理解せず、何で死んだかも分からなかったのだろう。


 


この映画一番の巨悪を主人公が殺したというのに、全然スッキリしない。それはこの映画が、魏莱もまたこの社会の犠牲者であり、劉北山と出会って救われ、社会からも情状酌量が許された陳念みたく、彼女も誰かが救われなければいけない「若者」だったという描き方をしているからだ。


 


 


・無力な大人鄭易のあがき


 


この映画の主人公として挙げられるのは陳念と劉北山だが、3人目として登場するのが警察官の鄭易だ。彼は本作の大人の代表として、現代の若者たちを取り巻く環境と彼女たちの行動に戸惑う。


終始陳念の味方でいる鄭易は、言わば「法の下にいる劉北山」であり、彼女のもう一人のボディーガードだ。しかし肝心の陳念からはあまり頼りにされておらず、そのことを自分でももどかしく感じている。


この映画の子どもたちは、大人からの庇護を拒絶する。自分たちを苦しめるこの社会(状況)を生み出した大人が一体何をできるんだと常に問い掛ける。まだ若い警察官の鄭易は陳念たちに何度も寄り添おうとするのだが、「大学受験があるからイジメのことは言わなかった」という陳念の言葉に驚くなど、今の子どもがどれだけ過酷な環境を生きているのかがよく分かっていない様子が描かれる。


 


彼の能力が発揮されるのは物語後半、陳念の魏莱殺しの罪をかぶった劉北山を取調べしている最中だ。連続強姦犯に扮して陳念を襲っているところを逮捕された劉北山は魏莱殺害も自白し、陳念から捜査の目を逸らそうとする。鄭易には二人が嘘を吐いていることがすぐに分かったが、何も証拠がない。若者二人は全く尻尾を出さず、劉北山は陳念のために刑務所に行く覚悟があり、陳念は何年かかろうとも劉北山の出所を健気に待とうとしている。だが、真正面に罪と向き合おうとしない二人を許すわけにはいけない彼は、なんと強姦犯として捕まった劉北山とその被害者である陳念を面通しさせる。もちろんれっきとした規律違反だが、彼の捨て身の行動でも二人が真実を明かすことはなかった。


そこで彼は次の行動に出る。受験に合格した陳念のもとに来た彼は、劉北山が死刑になったと告げる。何年後かに一緒になることを待ち望んでいた陳念にとって、これは最悪の知らせであり、彼女はその場で泣き崩れる。しかし、これは鄭易のウソ。彼女の本心を引き出すために繰り出したブラフであったのだ。そして、陳念に「本当のことを話せば二人とも罪が軽くなる」と説き、ついに彼女を説得する。


 


これには、懐柔でも脅迫でもなく、ドッキリを使って自白させんの?!と、見ていて驚いた。この鄭易の行動は、全く心を開いてくれない陳念への意趣返しにも、愛のために全てを投げ出せる劉北山への嫉妬心にも見え、とても大人気なく感じた。


 


・イジメ被害者にメッセージ


映画のラストでは舞台が2015年になっている。4年間の刑期を終えた陳念が学校(英語教室?)の先生になり、何か悩みを抱えてそうな少女に寄り添って歩いているその後ろで劉北山が見守っている。


そしてスクリーンには中国が2015年から取り組んでいるイジメ対策の内容が次々と流れ、劉北山役の易烊千璽(イー・ヤンチエンシー。お前、易が名字で烊千璽が名前だったのか…)が、「イジメを見て見ぬ振りするな」という励ましのメッセージを観客たちに送る。


なぜこの映画が現代ではなく2011年なのか。2011年ではまだメジャーじゃなかったスマホや微信を学生たちが使っているのはなぜか。その原因を色々考えてとてもシンプルな推測が生まれた。この映画は元々現代を舞台にしていたのだが、それでは上映の許可が下りなかったので、イジメ対策がまだ完全ではなかった2011年を舞台にすることで、許可をもらう代わりにリアリティを犠牲にしたのではないだろうか。更に一歩踏み込んで考えると、この映画を海外でも上映したいと考える人間(監督たちではない)の目的は、映画の内容ではなく、ラスト数分の中国のイジメ対策の成果の喧伝なのではないか。


 


中国の映画で殺人を犯した未成年者が罪に問われないなんてありえないので、陳念が魏莱を殺害していたことが明らかになった時点で陳念逮捕は予想が付いた。しかし情状酌量を認められて4年で出てこられてるというオチは、ハッピーエンドにも見えるが、愛する女性のために自分の人生を犠牲にしようとした劉北山の覚悟に泥を塗る描写でもあり、はっきり言って蛇足だ。


魏莱とは何だったのか。そもそもイジメなんか本当にあったのか。ハッピーエンドをしっかり描いてしまったことで、これまでの不幸が全て薄っぺらに思えてしまう終わり方だった。やっぱりここは『容疑者Xの献身』のように二人共罪を償うことを決めて終わるか、『白夜行』のように男が死のうが女は一人で生きていくという終わり方にしたほうが良かった。

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久々に中国語ではない書籍のレビュー。


 


色んな縁が重なり、台湾の作家・九把刀の代表作『あの頃、君を追いかけた』を泉京鹿さんと共訳という形で講談社から出し、駆け出しではあるが翻訳家と名乗っていい立場になった。すると他の翻訳家のことが気になる。個性、訳し方、苦労、境遇、稼ぎなどなど、中国語の翻訳家の数が少ないので他言語の翻訳家を参考にすることがほとんどだが、外国語が分からなくてもそれについて書いた日本語のエッセイは分かる。そのような気持ちで書店で偶然手に取った、ドイツ語翻訳家が書いた本書を購入した。


 


著者はこれまでアリーナ・ブロンスキーというドイツ人作家の小説『タタールで一番辛い料理』『僕をスーパーヒーローと呼んでくれ』を翻訳、出版した経歴を持つ元サラリーマンだ。長年会社勤めをしており、すでに基本的なドイツ語能力を持っていたが、本格的にドイツ語と翻訳を勉強し始めたのは早期退職後だという。本書は著者が会社を辞め、翻訳家の道を進み、本書と同じ幻冬舎から上記の本を自費出版した経緯が書かれている。だが、本書を翻訳家のエッセイという括りで入れていいのか迷う。


 


これまでも英語翻訳家の越前敏弥さんや柴田元幸さんらのエッセイを読んだが、翻訳家のタメになったり、読者が感心したりするような翻訳エピソードやコツなどを披露してくれた。本書を読んでみると、確かに翻訳エピソードも書いてくれているのだが、それ以上に気になるのが翻訳家としてではない、著者個人の「我」の強さだ。全5章の本の第1章と2章を使って、翻訳とほとんど関係ない著者の経歴を述べ、本全体のそこかしこで会社や社会や教育などに一言物申す。


 


本半分を使ってやったことは「私はこんなに面倒くさい人間ですよ」という自己紹介だ。そして翻訳のエピソードはどうかと言うと、ドイツ語特有の男性名詞、女性名詞、中性名詞を日本語に訳す難しさ、ドイツ語文章のくどさ、とかを書いていて、ドイツ語を全く知らない自分には新鮮だったが、勉強にはならなかったし、ドイツ語学習者には今更感のある話題だろう。


 


不可解なのが、著者はアリーナ・ブロンスキーの作品を翻訳しているのに、その文章を取り上げて訳し方を読者に教授しないことだ。ドイツ語翻訳の絶好の参考資料だと思うのだがそれをしない。にもかかわらず自分の文章がアリーナ・ブロンスキーに影響を受けていると告白し、「この書き方がアリーナ・ブロンスキーっぽい」と自分でツッコミを入れる。だが、日本では全く無名で著者しか作品を翻訳したことがないドイツ人作家の名前を出されても読者は全然ピンと来ない。


アリーナ・ブロンスキーの特徴に言及する文章を読んでいたら、ふいに『どこでもいっしょ』というゲームの、しょっちゅう外国語を披露し「今のは○○語で☓☓っていう意味よとのたまう外国かぶれの犬キャラ・ピエールを思い出した。


 


他にも著者紹介で「KSGG会員」と書いているが、初めて見る略称からはその実体を全く想像できない。神奈川善意通訳者の会が正式名称のようなのだが、いきなり略称を書いて許されるのはWTOとかNASAぐらいだろう。


 


著者は本書を含め、これまで全て幻冬舎から自費出版で本を出している。退職金を手にし、マンションを購入し、貯金がある人間の道楽として翻訳家の道を選んだ。出版費用は莫大なものになったらしいが、本書ではその金額を明らかにしていない。痒いところに手が届かない内容で、


 


 


中年(?)を過ぎても翻訳家になれるというケース紹介の本として成り立っていたのかもしれないが、エピソードがどれも駆け出しの人間の初歩的な思考によるもので、推敲が全然足りていない。もしかしたら著者が自分を卑下して、自分のレベルではドイツ語翻訳を教える立場にはないと思っているのかもしれないが、もう本を2冊も出しているプロなのだからもっと具体的な翻訳の話を披露して、読者に知識を分け与えてほしかった。


 


今後著者の翻訳した本を読むのかは分からないが陰ながら応援したい。その一方で、道楽で翻訳した本を自費出版している人間には席をどいてもらい、出版社から委託される翻訳力を持っていてもっと若い翻訳家に任せたほうが将来的には良いのでは、とも思ってしまう。著者が自費出版のくびきから解放され、景気のいい話をしてくれる日が来ることを祈るばかりだ。

 ダン・ブラウンの『ダヴィンチコード』の翻訳者・越前敏弥による長年の文芸翻訳に関する経験談が書かれたエッセイです。


 本を出版する以上、翻訳とは個人の仕事に収まりません。本書では出版社の編集者や周囲の翻訳者、更には海外にいる知人の力を借りて一冊の日本語の本を作り上げる翻訳の裏側が書かれています。タイトル一つ、文章一本翻訳するのも至難の業で、これが本当に正しい訳なのかと考えてしまってドツボにはまる状況は文芸翻訳以外の翻訳者も何度も経験したことあるはずです。


 本書でも言われていますが、読めば別に大した事のないと思える訳文でも、それを実際に翻訳するまだに多大な労力がかかっています。読者は既に翻訳された作品を読んで正解を知っているからあれこれ言えますが、最初に答えを作る翻訳者は単語一つ翻訳するだけでも難儀します。しかしそのように悩み抜いた結果、名訳と言える文章ができるわけです。


 本書で主に書かれているのは当然英日訳のエピソードですが、決して特有のものではなく翻訳業界全般に通底する話であることがわかります。特に『翻訳の基本十か条』なんてどの言語の翻訳でも必要な条件でしょう。



 この本を読んでいるときは自分が中日訳をした際のことを思い出していました。例えば、『ダヴィンチコード』に登場する黒幕である『Teacher』の訳語を一ヶ月かかって『導師』に翻訳するというエピソードには昔中国の伝統芸能関係の文章で出て来る「上課」をどう訳すか悩んだ自分と重なりました。

 この「上課」とは一般的に「授業」と翻訳されるので最初はそのように訳していたのですが、伝統芸能の記事で使うのはちょっと現代的過ぎるという指摘を受けて、結局は相手側が提示した「稽古」を使用しましたが、たしかにこの方が文章の内容に合っていると思いました。


 私は別に著書一冊もないほぼ日雇いの兼業翻訳者ですが、それでも自分なりの翻訳の作法を持っていますしエピソードも多々あるので、そういうことを日々まとめておくことが大事だなと感じました。

ぼくは眠れない 椎名誠


 


この本は冒険家、SF小説家、エッセイストなど数多くの顔を持つ椎名誠が35年間続いている不眠症を告白した本です。出版当時(2014年)はまさか椎名さんが不眠症に罹るなんてと驚いた覚えがあります。


 


その時は本自体には興味を持たなかったのですがしかし最近になって私も環境の変化などが原因で不眠症を患い、日本に帰国する機会がありましたので購入しました。


結論としてはいつもの椎名さんの本のような雑学や小言、体験談を期待して読むと読み応えに欠ける内容でしたが、椎名さん読者なら知っているサラリーマン時代や旅行の裏側で椎名さんが睡眠の面でこんな苦労をしていたのかと驚かされるので、各種エッセイの裏話的な本として読むと面白いと思います。


 


 


椎名さんは自分が不眠症になったのはサラリーマンと作家を両立させていた頃だとし、それから会社を辞めても出版社から時間を無視した電話連絡が来たり、ストーカーに悩まされたりで病気がますます酷くなったと述べています。


ストーカー問題はとっくの昔に解決していますし、今更椎名さんに深夜に仕事の電話をする人はいないでしょうし、その対策も初期の段階でしていたようです。しかし椎名さんの不眠症は会社を辞めようが問題が解決されようが治りませんでした。


 


そして椎名さんには睡眠薬が効きましたが、親しい人が睡眠薬により体を壊したことと睡眠薬自体にマイナスイメージを持っているため「睡眠薬は怖い」と思いあまり使いたくはないそうです。それに椎名さんの場合は起きたら仕事をするという選択肢もあるため、皮肉にも作家という仕事のおかげで不眠症と折り合いを付けられているようです。


 


 


本書を読んでいると不眠症になったばかりの私も頷けることばかりで、私もこれから30年以上この病気と付き合わなければならないのかと陰鬱な気分にさせられます。私ももう既に不眠症の原因となった環境からは離れているにも関わらず、睡眠は12時間ぐらいしか持続しません。


そしてこれは病人に成りたての者特有の思考かもしれませんが、睡眠薬を使って寝ることはダメなことだと考えて、今日は大丈夫だろうと何の根拠もなく服用せずに寝たらやはり全然寝付けないしすぐに目が覚めてしまいます。


ただ、睡眠薬が私と合わないのか服用して寝られることは寝られるのですが快眠効果は得られず寝起きが非常に悪いです。だから睡眠薬は使いたくないと思い、余計睡眠不足になるという悪循環が発生します。


 


椎名さんも最初は抵抗があったようですが今は睡眠薬服用しているようですし、体が万全じゃないからこそ薬に頼るべきなのに素人判断で余計な意地を張れば快復からますます遠のきますしね。あとは椎名さんのように、寝られないのであれば無理に寝ようとせず自分のことをやって時間を潰せば、自分が病気に翻弄されていない気分になるので苛立ちは少なくなるかもしれません。


 


 


私はもともと睡眠時間が少なく、朝の4時や5時に起きても大丈夫でしたし敢えて早起きすることも多かったです。もしかしたらそれが病気への第一歩だったのかもしれませんが不眠症になってわかったことがあります。それは自分の意志で短時間睡眠を心がけている人と不眠症の人の睡眠は時間が一緒でも意味は全然異なるということです。全然寝られなかった寝起きの不愉快さは一日中残ります。不眠とは人生から快楽がひとつ減る重大な病なのです。


 


 


 


 



 


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 『小樽の25歳』ことおかもと(仮)がデビュー作『伝説兄妹!』のバカバカしいノリを引っ提げて帰ってきた。

  
 リア充高校生篠中紳士は友人達から誕生日を祝われている最中、空から降ってきた魔王に激突され爆発したと思ったら、自身の左腕を乗っ取られてしまう。左腕を自由に操る魔王の悪行を止めさせようと紳士はクラスメイト達から向けられる奇異な目にも負けず、『邪気眼』というあだ名を付けられても構わず「しずまれ、しずまるんだ僕の中の魔王よ」と左腕を抑える。

 しかし人間の肉体(左腕)を手に入れた魔王がどんな悪事を働くかと思えば、紳士の左腕を操って携帯電話で2chのまとめサイトを見たりFPSゲームをやりこんだりと極めて人畜無害(紳士以外)な様子。しかも魔王はえらく綺麗な容姿をしているから、魔王らしく勝手気ままに振る舞い、魔王らしからぬ行動を起こす彼女に紳士は迷惑を感じながらも、徐々に心惹かれていく。

 だがそんな魔王を退治しようとする勇者を名乗る現役浪人生の女や自衛隊特殊部隊が現れ、紳士は魔王から離されてしまう。果たして紳士は惚れた魔王を助けることが出来るのだろうか。
 

 宝島社 しずまれ!俺の左腕

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