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栖鄭 椎(すてい しい)
年齢:
40
性別:
非公開
誕生日:
1983/06/25
職業:
契約社員
趣味:
ビルバク
自己紹介:
 24歳、独身。人形のルリと二人暮し。契約社員で素人作家。どうしてもっと人の心を動かすものを俺は書けないんだろう。いつも悩んでいる……ただの筋少ファン。



副管理人 阿井幸作(あい こうさく)

 28歳、独身。北京に在住している、怪談とラヴクラフトが好きな元留学生・現社会人。中国で面白い小説(特に推理と怪奇)がないかと探しているが難航中。

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ウェブ版の「南方週末」で気になる記事を読み漁っていたところ、こんな記事を見つけました。


 厳しい寒さの冬を乗り越え、作家李西閩はうつ病に打ち勝った
 http://www.infzm.com/contents/219397


 李西閩はホラー小説家で、2008年に四川省で起きた汶川大地震で76時間生き埋めになった経験をまとめたエッセイ『幸存者』を発表したことで有名です。しかし地震で心に傷を負い、地下鉄車両内で閉塞感を覚えたり、轟音を聞くと当時の災害がフラッシュバックするようになったりし、悪夢にうなされ、最終的に重度のうつ病と診断されてしまいます。

 うつ病と向き合い治療を続けるけど言葉が全く紡げない日々が続く中、とうとう2015年に突然文字が書けるようになり、その後、うつ病を題材にした小説『凛冬』(2018年)を完成させました。


 実は私、中年のうつ病体験談に興味があって、吉田豪の『サブカルスーパースター鬱伝』や田中圭一の『うつヌケ』などの中年のうつ病を題材にした本が好きでした。そして最初にこの記事を読んだ時、てっきり中国人作家によるうつ病体験談や精神病院ルポが書いてあると思い、速攻で購入したのですが、残念ながら半フィクションでした。


 せっかく左灯の『我在精神病院抗憂鬱』で描かれたような中国独特のうつ病の治療法が知れると思ったのに。ただ、『凛冬』はフィクションだからこそ、うつ病患者である主人公に次々と不幸が襲いかかるので、こんなの心がどれだけ強くても折れるだろ!という手加減のなさが良かったです。

     

 ・うつ病作家の半自伝的小説

 生徒に人気の国語教師だった朱阿牛は、書いた小説が偶然の大ヒットを果たし、周囲に急かされ2作目の構想を練っていた矢先、同居していた妹の朱阿芳が運転する車の事故により妹とその彼氏を亡くし、自身も顔に傷を負う。強い喪失感と無気力感に襲われた彼はうつ病と診断され、妹のいない家でただ日々を過ごしていく。このままではいけないと知人に仕事を紹介してもらったり、うつ病の互助会に出席したりしてなんとか社会との接点をつくっていくが、そんな彼にさらなる不幸が襲いかかる。



 会社のパワハラやセクハラ、ブラック企業でのオーバーワーク、家族からのDVなどに起因するうつ病事例をネットで見てきたので、うつ病っていうのは周囲からの長期的なストレスによって発症するって印象だったのですが、本作でその引き金を引いたのは突然の家族との死別でした。

 幼い頃に両親を亡くし、祖父母のもとで育てられた朱阿牛・阿芳は兄妹間の強い結び付きを持っていた。だから阿牛にとって阿芳の死は半身をもがれたような苦しみだった……と読めるのですが、朱阿牛の回想によって2人が単なる仲良し兄妹ではないことが分かります。実は阿芳は子どもの頃から我が強く、それ自体は個性なのですが、祖父母の家に引き取られてからは度を越したワガママになっていき、自分の意思を貫き通すためについに「子どものしたこと」では済まないレベルの事件をやらかすという、要するに自分の不機嫌な態度やマイナス感情を発露させることによって他人をコントロールする性格だったのです。そして大人になっても兄と一緒に住み、暴力は使わないにせよ態度や言動で兄の行動を束縛し、静かな暴君として振る舞っていました。

 朱阿牛にとって、妹に彼氏ができるということは、将来的に妹が家から出て解放されることを意味していたのですが、妹は結婚して家を出るより先に彼のもとから永遠に離れていったというわけです。しかも妹の束縛は呪縛に変わり、幻覚や幻聴という形で妹の魂が彼の心と部屋に残るようになります。


 だからこうして見ると、朱阿牛のうつ病の原因ってのは、愛する人を亡くしたショックではなくて、半分DVの束縛下からいきなり抜け出した戸惑いではないかと感じられました。うつ病の発症経験なんて十人十色でしょうけど、ちょっと特殊すぎるケースです。

 朱阿牛は、もう妹を優先して一日の計画を立てなくていいと思い、それに開放感を覚える一方、体は重くて動かないしやりたいこともない。そして亡くなった妹に罪悪感を覚え、彼女の部屋に足を踏み入れられないし、彼女の骨壷をずっと家に置いている。

 骨壷は結局、家の近所の木の下に埋めるのですが、埋め終わった途端にやっぱりあんなところじゃ妹が可哀想だと掘り返して持ち帰るシーンに切実な兄妹愛が感じ取れました。遺骨を海とかエアーズロックに撒かなくて良かったです。


 ・休めないし休まない

 そして彼の不幸はここからが始まりです。もっと家で休んでいればいいのに、人並みに社交性があり、作家ということで顔も広く、また彼自身、うつ病を自覚していながらもこのままではマズいと思っているせいで社会とつながろうとします。うつ病患者が他人に会ってもバッドコミュニケーションを連発するだけだと思うのですが、案の定やることなすことにケチがつきます。仕事先でヘマをしたり、元カノの今カレとケンカしたり、旧友の詐欺に利用されたり……そして弱り目に祟り目で、大好きな祖父がマッサージ店で急死してしまいます。これだけでも十分ショックな出来事なのに、死んだ場所が場所だったせいで、祖母が店を相手取って賠償金をせしめようと連日大騒ぎ。朱阿牛は家族唯一の男として、祖母と店の板挟みになりながら交渉を進めます。


 うつ病ってのは「一旦停止」の意味があると思います。働いていたら休んで、疲れていたら寝て、きちんと病院行ってお薬をもらうといったように、生活スタイルをストレスのないものに変えて休養に専念するのが本来のうつ病患者の正しい日々の過ごし方のはずです。しかし、朱阿牛はそうはなりません。

 大切な妹が事故死したところに最愛の祖父が急死っていうダブルパンチで常人でも立ち直れない状態だと言うのに、金にがめつく転んでもタダでは起きない祖母が騒ぐせいで、朱阿牛はマッサージ店から祖父が亡くなったことに対する賠償金を請求しなければならなくなりました。

 うつ病患者に神経をすり減らす金銭交渉させるなんて正気の沙汰じゃありませんが、朱阿牛も誰かに言われていやいややっているわけじゃなく、うつ病であることを理由に問題を回避したり目を背けたりしないんですよね。この阿牛の責任感のある態度と周囲から期待される役割に加え、彼の周囲で次々に発生する不幸が、彼にうつ病を理由に休むことを許してくれません。


 結局のところ、うつ病になって病院で治療を受け、自身の時間を一時停止させたところで、社会と繋がりを持とうとすれば、時計の針は周囲の時間に合わせて進むわけで、病気だとしても人の前に立てば頼られるのは必然なんですよね。阿牛は頼られることを拒まない男なのです。


 ・家族に虐待されるリアルな中国人女性

 本書には朱阿牛の他に2人の女性うつ病患者が登場します。2人共、家庭で生き地獄を味わっていて、彼女らの口から滔々と語られる不幸話は生々しいもので、モデルとなった実在の人物がいたらやるせないなと思う反面、中国のどこにでも転がっていそうな境遇に諦めを覚えてしまいます。そして朱阿牛は、よせばいいのに彼女らの話を聞き、彼女らを支えようとするんですよね。自分だって大変なくせに。

 彼に最も深刻なうつ病症状が現れるのが、妹と一緒に暮らした家の中であって、外に出て人と一緒にいる分には特に問題なさそうです。その理由はおそらく、彼が会う人物が、長年連れ添った夫を亡くしたのに金のことしか考えない祖母や、家族から長期に渡って虐待同然の仕打ちを受けている女性など、全員ではないにせよ相対的に見ると自分よりはるかに厳しい人間だから、彼がフォローに回らざるを得ないためです。最後なんて数百キロ先でリストカット実況する女性を救いにタクシーに乗り込みます。ここだけ滝本竜彦感ありますね。


 朱阿牛のように、うつ病だけど外出し、人と触れ合い、仕事をすることは、その様子を傍から見ていればハラハラさせられますが、間違いではないと思います。心の病になったことで何十年も引きこもってしまったり、最悪自殺してしまったりというケースをネットのどこでも見掛けられる時代において、朱阿牛並びに李西閩はうつ病克服の成功例なのかもしれません。


 また、本書からは次のような考えも見えてきます。それは、精神的に弱っている時、家族などの身近な人物の存在は逆に症状を悪化されることになりかねないということです。上述の2人の女性うつ病患者は、1人が過保護かつ過干渉な親から逃げるために手首を切り、もう1人はデリカシーのない義母と頼りないマザコン夫に絶望して死を選びます。朱阿牛を含めたこの3人はみな家族によって心に病を抱えますが、本書の中で唯一介抱に向かったのは、一人暮らしをしている朱阿牛だけです。


 ただ、朱阿牛のモデルであろう作者の李西閩には妻と娘がいます。ということは、最大の原因は、無理解な親なのでしょうか。


 ・うつ病の「春」とは?

 本書のタイトル『凛冬』とは厳しい寒さの冬を意味し、またそれはやがて春が来るという意味も隠れています。しかしうつの発症と寛解を循環する季節で例えた場合、再び冬がやってくるのは確実です。実際、作者も好転した後に知人の訃報を聞いたことで再発しています。ただ、朱阿牛が物語の最後に、寒さで凍えそうなほどの厳しい環境にいる女性を救いに行ったように、声を発し続けれていれば、誰かが「冬の中」から助けてくれるかもしれません。


 しかし、うつ病患者がみんな朱阿牛みたいに強くたくましいわけじゃありません。だけど、日々の生活で必要な生活費を稼ぐことを含め、人間というのは突然の不幸やアクシデントで動かなきゃいけない時があります。メンタル弱っている人に動けと言うのはかなり酷ですが、本書には、世間の荒波に揉まれることが寛解に向かうこともあると書いているように読めました。


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本書は左灯という1990年代生まれの女性が、うつ病になって20179月に精神病院に入院してから経験したあまりに個人的な出来事とあけすけな気持ちを書いた入院日記だ。もともとはリアルタイムでネットにアップしていたブログであり、ブログと本書を読み比べると収録されていない内容もある。本書に彼女の具体的な年齢は書かれていないが、2019年で27歳だったそうだから、入院時は25歳か。


 


自分は中国どころか日本の精神病院のことも知らないので日中の事情を比較することもできないが、それにしたって本書で記されている中国の精神病院内の様子には色々とカルチャーショックを受けた。スマホ持ち込み可(ただし充電は看護師の許可が必要)という自由があるのも驚いたが、患者の家族も付添で入院可能という体制には、よくトラブルが起きないなと感心した。また患者同士の距離感がとても近く、おしゃべりなオバサンとの会話に付き合うという日常の延長のようなアクシデントもあれば、娯楽に飢えている患者たちに恋愛模様を野次馬されるという中学校のような恥ずかしい場面もある。しかもそれは著者と他の入院患者の家族なのだ。他にも、入院した精神病院の治療法が書かれているが、漢方薬入りの足湯や耳つぼといった効果不明な中国らしいものから、磁気、ダンス、そして電気ショックという直接的なものまで揃っている。特に電気ショック(日本では電気けいれん療法というらしいが)は日にちや家族まで忘れてしまうというデメリットがあるが、嫌なことが忘れられるため彼女はこれにハマってしまったのだという。


 


突然精神病院に入院し、手元にスマホがあった左灯には、精神病に対する偏見をなくす、精神病院の問題点を改善するなどの意識はなく、入院中あった出来事を赤裸々に書いていくだけだ。患者仲間との日常会話や、患者の同伴家族男性との恋、隠れてタバコを吸ったことなど、入院しているということを除けば、比較的自由な院内環境が彼女の文章から見えてくる。だがそもそも入院したくてしているわけではないので、文章の端々からは不安や怒り、そして誰に対しても自分の意見を押し通そうとする強いエゴが感じられる。



抗うつ剤が1錠50元(約800円)と高額で、毎回人民元を飲んでいるようだという感想からも分かる通り、彼女が正直すぎる日常を書いている。日記形式なので自分本位なのは当然なのかもしれないが、医者の悪口を書くばかりか、自分の家庭環境の問題も包み隠さず公開しているのは心配してしまう。


 


彼女の両親は娘のことは大切なようだが、精神病に対する理解や知識は、彼女の目から通してみると乏しい。父親は入院に同伴するほど優しいが正直言って過保護であり、娘を子ども扱いしている。母親の方は娘の病気を真剣に考えていないようで、退院後まだ不安定な娘を連れて正月の親戚参りをする。しかもその理由が、顔を見せないと何かあったと疑われるからだという。そしてこの家族最大の問題は養子で、彼女にとっては義理の兄に当たるこの男が前科持ちの正真正銘のクズ。彼女は縁を切りたいと思っているのに、この兄はそれに応じず、父親も息子をかばうという、彼女にとっては四面楚歌の状態だ。退院後の彼女は無職なので実家に戻っているのだが、家に自分の味方をしてくれない家族がいるのなら家を出たほうが良いと思う。とは言え彼女のうつ病は仕事が原因なので、家族の問題は関係ないかもしれないが。


 


本書を出版した2019年時点で彼女はまだ完治していないが、自分の病ときちんと向き合っているようで、その方法も個性的だ。自身のうつ病に「マリオ」という名前をつけ、そうすることで病と仲良くなろうとしている。だが表紙の黒い犬こそマリオであり、裏表紙にはその首を引っ張る真っ黒で小さな女性が描かれており、まだまだ飼いならせていないどころか、うつ病をますます大きくさせてしまっているように見える。



自分のことだけではなく家族についてまで遠慮なく書く彼女の姿勢に思わず永田ガビを連想してしまい、左灯の今後が心配になった。彼女がもし2作目、3作目を出すことになったら、それは歓迎すべきだろうか。


その1



長いと言われたので二つに分ける。





 


  この本にはあと2人、性暴力の被害女性が登場する。1人は房思琪と劉怡婷にとって姉のような存在で、夫に家庭内暴力を振るわれている許伊紋。もう1人は以前李国華に強姦された郭暁奇だ。房思琪と違うのは、彼女らが加害者や社会に対して声を上げたということだが、その声は結局かき消される。


 


許伊紋は意を決して夫に、これ以上の暴力はやめるよう訴え、一度はそれを聞き入れられる。だが、大体のDV被害者同様にまた殴られ、取り返しのつかない怪我を負う。


郭暁奇は自分を捨てた李国華に反撃しようとネットに投書するが、返ってきたのは心無い罵倒ばかりで、李国華にダメージを与えることはできなかった。


 


彼女たちの口を閉じ、声を無視したのは一体何なのか。この本を読むと、世の中には一体どれだけ「完全犯罪」の被害者がいるのかと暗澹たる気持ちになる。


 


 


実話を基にしているとは言え、結局は「物語」だ、と読者は逃げることもできたかもしれない。だが著者の林奕含はそれを許さずに先手を打ち、劉怡婷の背後に読者を据えて、許伊紋にこう言わせる。「あなたは、強姦を楽しむ人間も、強姦された少女も存在しない振りをして生きていくこともできる」。このように言われ、知らない振りをしようとする者はいないだろう。だが、振りをしないためにはどうすればいいかと考えた時、やはり「そんな人はいなかった」と考えてしまう人が大半なのではないだろうか。


 


 


例えば李国華がAVなどに触発されたとか言っていれば、分かりやすい犯人探しもできただろう。だがこの本が挑戦しているのは、すでに形成されて確固として揺るがない社会だ。文学を愛する房思琪と許伊紋が被害者のままだったというこの文学作品が、どれだけの力を持って社会に立ち向かえるのか分からない。


 


日本でこの本がどれだけ受け入れられるか不明だ。過激さ目当てに売れたら嫌だなぁと反射的に思う反面、台湾でベストセラーになった要因はセンセーショナル性も確かにあったと思うので、あまり上品なことを言えば、それこそ既存の社会制度に与することになるのかなぁと悩むところだ。


 


 


日本語に翻訳されるということだったので、もし自分が翻訳したら…と考えながら読み進めたシーンもあるが、その作業によって他人には見せたくない心の内をさらけ出すことになるとは思わなかった。例えば李国華に強姦される少女らが「不要不要」と抵抗するシーンをどう訳すか考えた時、自分の頭の中の棚を漁って類義語や類似したシーンを取り出そうとすると、人に知られたくないものばかり出てきて、これをそのまま使うのは流石に気が引けるなと思った。


 


 


 仮想翻訳ですら気持ちが暗くなるのだから、作者にとって執筆がどれだけ辛かったのか想像もできない。作者の林奕含はこの本が出版された2カ月後に自殺したそうだが、一体その2カ月間をどう生きたのかがとても気になる。多分きっと、もっと傷ついたんだろう。

2017年に台湾で出版されベストセラーになった、実話を基にした性暴力被害告白小説。1024日に日本語訳が出たということなので、大陸向け簡体字だがノーカット版の原著を購入し、読んでみた。読後は、無力感と言うか絶望感と言うか、何かやらなきゃいけない義務感に駆られるものの、何をしていいんだかよく分からない焦りを感じた。


 


 


 


(日本語版書籍の情報は下記URLから)


https://www.hakusuisha.co.jp/book/b479960.html


 


 




台湾高雄の高級マンションに暮らす房思琪と劉怡婷は双子のように仲が良く、好みも同じで、文学少女の2人は共に、同じマンションに住む50代の国語教師李国華に憧れに似た恋愛感情を持っていた。房思琪は13歳の頃、李国華に勉強を教わりに行き、彼の部屋で強姦される。その後、房思琪は李国華の「愛」から抜け出せず、親や劉怡婷にも言い出せず、異常な関係を続けていく。表面上はなんでもないように見える房思琪だったが、奇行や不眠症など身体に異常が出て、彼女の精神は徐々に蝕まれる。5年後、精神を患って入院した房思琪の部屋を訪れた劉怡婷は、彼女の日記を見つけ、そこで初めて房思琪と李国華の関係を知る。全てを知った彼女はある決意を秘め、李国華の家に向かう。





 


 


 


まず最初に、自分はこの本を読むまで、房思琪が強姦を誰にも相談せず、李国華と関係を続けていく理由を、暴力や脅迫によって口が封じられているからだと思っていた。しかしすぐに、事実はそんなに単純じゃないことを思い知らされる。


この李国華という男は、教養があり、既婚者で、話し上手で、それにもう50歳ということもあってか、誰からも「男性」として見られず、性犯罪者だと疑われることがない。また、房思琪と劉怡婷も彼のことを「男性」と思っていないから、警戒せずに部屋に招かれる。彼女たちの両親も李国華のことを信用しているので、彼をよく自宅に招いて一緒に食事をしたりする。


李国華は最初の強姦以外、房思琪に対して特に明確な暴力を振るわないし、脅迫することもない。さらに時には、13歳の房思琪に押し負け、愛の言葉を強要され、優位に立たれそうになる。


 


強姦という犯罪で成り立っている関係性、37歳差、既婚者と中学生など、何もかもが異常であるが、美しそうに見える一瞬だけを切り取ってしまったら、このような関係も有りなのではと思ってしまいかねない。だが、徐々に精神を病んでいく房思琪自身が発する不協和音が、このような関係を絶対に許してはいけないと訴える。


 


李国華は少女を強姦することを悪いことだと全く思っていないようだ。最初の強姦時に房思琪に言い含めた「これは愛だ」という言葉を、彼自身が信用しているのかもしれない。サイコパスという表現はだいぶ陳腐になったが、強姦後の李国華の行動は常人には理解不能で、彼は事件後も平然と房思琪に家に行き、家族で一緒に食事をしたり、相変わらず彼女に勉強を教えたりする。


 


李国華の自信の源は、「これまで反抗した子は一人もいなかった」という彼の言葉にある。李国華にとって房思琪が初めてではなく、今まで一度も表沙汰になったことがないのだ。


 


李国華に自信を与え、彼の成功体験を重ねたのは何か。その原因の一つは、性暴力の存在を認めようとしない社会だ。房思琪は当初、李国華とあったことを母親に相談しようとしてそれとなく聞いてみるが、娘に性教育はまだ不必要だと考えている母親に理解してもらうのを諦め、この話題は二度と出すまいと決意する。


 


 


房思琪が口を閉ざし、李国華がますます厚かましくなった結果、房思琪と房思琪の母親、劉怡婷の母親、そして李国華が一緒に寿司を食べ、大人たちの談笑を無視して房思琪が黙々とバラン(食べられない草)を食べ、誰もそれに気付かないという下手なホラー小説より恐ろしい光景が生まれる。


目の前に自分を「殺した」男がいて、それが家族と仲良くしていることが子どもにとってどれほどのストレスになるのか。心のバランスを取るためか、房思琪は既婚者の李国華が本当に自分を愛しているのか確かめようと愛の言葉を求めるが、一方ではどんどん精神に異常をきたしていく。そして結局彼女は、5年前のあの事件以来予定されていた最悪な結末をとうとう迎えることになる。


 


 その2に続く


 


 


非常に不可思議でとらえどころのない小説。推理小説のジャンルとして売られており、作中で殺人事件などは発生するのだが、推理小説の謎解きの妙味は全く感じられない。本人の「分身」が身代わりに出頭する。カラスに化けられる(人間に化けている?)女性が出る。おそらく中国が舞台なのに、オーディンやムニン、カフカといった名前のキャラが出てくるなど、非現実的で常識からかけ離れており、全体的にフワフワしている世界観だ。決して面白くないわけじゃないが、じゃあどこが面白いのかと具体的なポイントを全く示せない。村上春樹的小説とシンプルに例えることは可能だが、合っているとも決して言えない。


 





現実世界は2つに分かれている。1つは誰もが実際に感じる世界。もう1つは封印されている「記憶」という暗黒。分身は仄暗い奥底から生まれ、自らの役割として暗黒の世界に閉じ込められる。


世界で神秘的な存在である「オーディン分身事務所」は、人々が分身を必要とする時、暗黒世界の門を開け、暗黒の力を解放する。分身を必要とする人は事務所と契約を交わし、記憶の一部を差し出す都市に生きる様々な人々には愛と苦しみ、殺人と復讐があり、分身の介入によってますます混迷を極めていく





 


これは本書に掲載されていたあらすじだ。これだと、「オーディン分身事務所」が話の筋になって、事務所にいろんな依頼人が訪れるというオムニバス形式の小説に見えるだろうが、むしろ事務所の人間が彼らに会いに行くのだが、その会い方も不可思議だ。ムニン(北欧神話に登場するカラスと同じ名前)という名前の女性は、カラスになって人々の元に訪れ、死刑囚の元にまで行ける。作られた分身は罪をかぶったり、死者の代用品として役割を果たす。


一つのマンションを舞台にして、同性愛者、愛人、養女など複雑な背景を持つ人々が登場するが、群像劇と言える展開にはならず、どいつもこいつも自己完結して死んでいってしまう。


 


結局の所、レビューにまとめられるような具体的な内容ではなく、あらゆる話が放射状に広がり続けて煙のように空に消えていってしまう、まさに雲をつかむような話だった。だが不思議と魅力があり、珍しく2度も読んでしまった。この本がどういう経緯で出版されたのかは知らないが、宣伝一つで売上も評判もだいぶ違っただろう。次は純文学やエッセイを出せば絶対売れると思うので、今後も活動は続けてほしい。



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