長いと言われたので二つに分ける。
この本にはあと2人、性暴力の被害女性が登場する。1人は房思琪と劉怡婷にとって姉のような存在で、夫に家庭内暴力を振るわれている許伊紋。もう1人は以前李国華に強姦された郭暁奇だ。房思琪と違うのは、彼女らが加害者や社会に対して声を上げたということだが、その声は結局かき消される。
許伊紋は意を決して夫に、これ以上の暴力はやめるよう訴え、一度はそれを聞き入れられる。だが、大体のDV被害者同様にまた殴られ、取り返しのつかない怪我を負う。
郭暁奇は自分を捨てた李国華に反撃しようとネットに投書するが、返ってきたのは心無い罵倒ばかりで、李国華にダメージを与えることはできなかった。
彼女たちの口を閉じ、声を無視したのは一体何なのか。この本を読むと、世の中には一体どれだけ「完全犯罪」の被害者がいるのかと暗澹たる気持ちになる。
実話を基にしているとは言え、結局は「物語」だ、と読者は逃げることもできたかもしれない。だが著者の林奕含はそれを許さずに先手を打ち、劉怡婷の背後に読者を据えて、許伊紋にこう言わせる。「あなたは、強姦を楽しむ人間も、強姦された少女も存在しない振りをして生きていくこともできる」。このように言われ、知らない振りをしようとする者はいないだろう。だが、振りをしないためにはどうすればいいかと考えた時、やはり「そんな人はいなかった」と考えてしまう人が大半なのではないだろうか。
例えば李国華がAVなどに触発されたとか言っていれば、分かりやすい犯人探しもできただろう。だがこの本が挑戦しているのは、すでに形成されて確固として揺るがない社会だ。文学を愛する房思琪と許伊紋が被害者のままだったというこの文学作品が、どれだけの力を持って社会に立ち向かえるのか分からない。
日本でこの本がどれだけ受け入れられるか不明だ。過激さ目当てに売れたら嫌だなぁと反射的に思う反面、台湾でベストセラーになった要因はセンセーショナル性も確かにあったと思うので、あまり上品なことを言えば、それこそ既存の社会制度に与することになるのかなぁと悩むところだ。
日本語に翻訳されるということだったので、もし自分が翻訳したら…と考えながら読み進めたシーンもあるが、その作業によって他人には見せたくない心の内をさらけ出すことになるとは思わなかった。例えば李国華に強姦される少女らが「不要不要」と抵抗するシーンをどう訳すか考えた時、自分の頭の中の棚を漁って類義語や類似したシーンを取り出そうとすると、人に知られたくないものばかり出てきて、これをそのまま使うのは流石に気が引けるなと思った。