数学者アルフレト・タルスキの有名な真実定義から取ったタイトルに作者の教養の深さを感じずにはいられない。
日本人イラストレーター中村至宏が表紙デザインを担当した本書は外見の時点で他の中国ミステリと一線を画する、陸秋槎お得意の『少女ミステリ』である。前作『元年春之祭-巫女主義殺人事件』では、読者が殺人の罪を問うこともためらわれるほど一途な同性愛的憧憬を見せてくれたが、本作でもタイトルに『雪』と『白』という純潔さを象徴する漢字が使われているように、他人の干渉を全く受けたくない少女の身勝手な愛が描かれている。
生徒会長の馮露葵と友人の顧千千は5年前に校内で起きた女子高生死亡事件に興味を持つ。ルームメイトたちからイジメを受けていた唐梨という少女がある雪の降る日にイジメ加害者のナイフで自殺を図った、という事件だったがその状況に疑問を覚えた馮露葵は、事件当時在校生であり現在は同校で司書として働いているミステリ好きの姚漱寒の案内で当時の関係者たちに話を聞きに行く。しかし、事情聴取後に学校で5年前と同様の事件が発生する。被害者は校内の問題児であり、イジメの加害者として先日顧千千たちから退学を命じられた呉莞だった。犯人はなぜ5年前の事件を模倣したのか。馮露葵と姚漱寒は事件の解決に動く。
まず、キャラクター造型が面白い。前作『元年春之祭』では聡明且つ冷酷な少女と平凡で優しい少女が探偵・助手の役割を果たしていたが、今作では一般的な探偵・助手像から脱却し、関係の倒錯した両者が描かれている。主人公の馮露葵は典型的な生徒会長キャラで頭の良い文学少女であるがミステリ小説には暗い。一方、馮露葵の助手として活躍する姚漱寒は一見すると自分が働いている高校の学生よりも幼く見える外見であるが、大人として、そしてミステリ好きとして馮露葵を引っ張っていく。生徒と先生(司書)、クール系年下と明るい年上、大人びた少女と子供っぽい大人の関係が事情聴取の旅を続けるという少女ミステリ好きならたまらない内容だ。
5年前の唐梨の事件とそれを模倣した現在発生した呉莞の事件は全く同じ雪を利用した密室殺人であるが、そのどちらもトリックそのものに焦点が置かれていないように見える。5年前の事件を解決する手段として馮露葵らは当時のイジメの加害者らに聞き込みに行くが、このようにして話の大部分が「犯人は誰か?」に当てられる。そして模倣事件が起きると、密室や犯人の謎以前に「何故やったのか?」という疑問しか思い浮かばなくなる。
2つの事件の謎が動機のみに絞られていき、トリックの内容よりも衝撃を受ける犯罪の理由が犯人の口から語られた時、本作は『少女ミステリ』として完成する。
新本格が持っている、人を人とも思わず殺人計画の一部として利用する度の過ぎた残酷さを当然本書も持ってはいるのだが、一般的な殺人犯とは異なる凶器に駆られた本書の犯人には「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付せない凄みと美しさがある。また幼い動機であるがゆえに、それは金銭目当てや怨恨など言うに及ばず他のどのような動機よりも純粋に思え、読者はきっと犯人に共感を示すだろう。だが犯人が特別であり、動機が特別だからこそ、それを肯定してはならない。全編に百合的な雰囲気が通じている本作が結局救われない結末で終わってしまうことは、中国における同性愛のタブー性を象徴しているようでもある。
是非とも大勢の人に読んでほしい新本格中国ミステリである。
4月15日18:00 中国伝媒大学の教室
『站在十字路口的国産推理』
(十字路に立つ中国ミステリ)
語り手:ミステリ小説家・呼延雲
陸秋槎のトークショーの翌日にミステリ小説家の呼延雲のトークショーが中国伝媒大学ミステリ研究会の主催で行われました。残念ながら来場者は30人程度でしたが、ミス研主催ということで伝媒大学の他に多くのミス研メンバーが参加していたようでトークショー後の質疑応答タイムでは10人以上の学生が呼延雲に質問をぶつけていました。
実は前日の陸秋槎トークショーに呼延雲が来ていました。私も、明日お邪魔させていただくので挨拶をしたところ、呼延雲も私のことを覚えていてくれて「明日のトークショーは『敏感』なことを話すぜ!」と言ってくれました。
『敏感』とは政治的にデリケートな内容を指す中国語です。以前、小説で警察が関与する臓器売買事件を書いて上から注意された呼延雲ならではのセールストークです。
しかし今回聞いてみると、その内容は私にとって『敏感』というよりも『深刻』で、中国ミステリを読み続ける者としていろいろなことを考えさせられました。
陸秋槎→呼延雲という順番でトークを聞けて非常に良かったと思います。
陸秋槎がミステリマニアから小説家になったという実体験をもとに、これから小説家になろうとしている若者を鼓舞していたのに対し、呼延雲は商業を重視する小説家としてデビューしたあとの困難を現在の中国ミステリ業界全体の苦境と合わせて話してくれました。
呼延雲はまず2016年度に中国で出版された本格ミステリが15作品以下というデータを示し、更にそれらの発行部数が少ないということを指摘しました。(これはあくまでも呼延雲独自の統計である)
それから2000年から2017年までを一つの中国ミステリ史と見て、初期の作家に水天一色や言桄、午曄、普璞とかの名前を挙げ、中期の流行期の作家に周浩暉や紫金陳らの名前を挙げました。
中国ミステリを読んだことのある人ならわかりますが、呼延雲が挙げた初期と中期の作家に関連性はありません。初期は中国ミステリインターネットサイト『推理之門』、または中国ミステリ専門誌『歳月推理』出身の作家でありますが、中期でメジャーになったのは初期に活躍したのとは異なる作家であり、彼らは天涯社区などに作品を投稿して頭角を現しました。
そして、彼ら中期の作家は本土化(中国に適した)した作品を書いたため、一般の読者から受け入れられたということであり、周浩暉に至っては『中国の東野圭吾』というベストセラー作家の称号を得ました。
しかし、果たして周浩暉ら「売れている」作家は本当に売れているミステリ作家なのでしょうか。呼延雲は中国SF小説の超有名作家・劉慈欣(今年映画にもなる『三体』の作者)の名前を出し、「中国ミステリには劉慈欣はいるのか?」と問いかけます。
しかし中国SFも決して順風満帆ではないと呼延雲は指摘し、「果たして中国SF業界は盛り上がっているのか?」と疑問を提示し、中国SFは劉慈欣一人勝ちの状態で他の作家や業界全体はそれほどメジャーにはなっていないと踏み込んだ発言をします。
私もこの意見には共感できます。確かに中国SF関係の授賞式の規模や賞金額の大きさに感心させられることはありましたが、じゃあホントに売れているのかと考えた時、その人気を反映するような状況を見たことがないという事実に思い至ります。もちろん、中国産SFはたくさん出版されていて、郝景芳の『折りたたみ北京』は2016年度第74回ヒューゴー賞短編賞を受賞しました。
終盤、呼延雲は小説を書く際に注意している4つの点を上げました。
1.動きのあるストーリー
2.斬新なネタ
3.古代の要素を取り入れる
4.ジャンルはあっても形はない
上記の点が反映されているのが『黄帝的呪語』や『烏盆記』です。現代を舞台にしていながらも古代中国の要素を取り入れて、売れるように工夫をしていることがわかります。
そして、中国ミステリ業界の現状を以下のようにまとめました。
作品が『本格』的であるほど、成功する難しさは増す
作品が『本土』(中国)的であるほど、成功確率は高くなる
大衆は欧米ミステリを欲し、一部のマニアは日本ミステリを欲する
呼延雲の意見は、現代の中国では日本の本格や新本格のようなトリック重視の作品は商業向きではないということで、売れたいのであればサスペンスやストーリー重視で、中国要素を入れた欧米ミステリ的な小説を書け、ということです。
この主張自体、中国ミステリでは全く新しいものではありません。以前から中国ミステリの『本土化』(中国化)は叫ばれていましたし、だから作家はもっと知識を取り入れなければいけないと言われていました。しかし、商業的な立場から日本ミステリ風の中国ミステリは中国では売れないと主張しているのは呼延雲ぐらいじゃないでしょうか。
トークショーの最後に呼延雲は『中国ミステリの黄金時代は始まっている最中なのか?それともすでに過ぎてしまったのか?』と問いかけました。
この問いは中国ミステリ作者と読者にとって切実です。今後、新しい作品が生まれたとしても、一部で受けただけで終わってしまえば作家は生活が続けられません。
以前、もと新星出版社編集者の褚盟は「中国ミステリは欧米や日本と比べて遅れており、大成するまでまだ30年ぐらい時間がかかる」というようなことを言っていました。しかし呼延雲の問いかけによって、30年という時間も希望に過ぎず、そもそもすでに終わっているという可能性もあり、更に暗い未来が見えてきました。
呼延雲は中国ミステリを商業的に成功させる方法を語ってくれましたが、本格ミステリを中国で売るためにどうすれば良いのかという問いに対して答えを述べませんでした。ただ、トークで呼延雲が「今の中国ミステリの状況でまだ『国産ミステリを読んだことがない』と言う読者はかなり偏見を持っている」と指摘した通り、作家がより良い作品を書くということはもちろんですが、それによって読者や出版社の意識を変えていき、「国産ミステリなんか読んだことない」という中国人読者の『中国ミステリ=つまらない』という偏見を減らしていくしかないのでしょう。
2015年4月14日から16日にかけて、日本在住の中国ミステリ小説家・陸秋槎と著名な中国ミステリ小説家・呼延雲のトークショーが北京で開かれました。この模様はおそらく今後、新星出版社や雲莱塢などから公式の文字起こしデータがアップされるでしょう。ここでは3日連続で出た私が備忘録としてその時の内容を書き起こします。
私の聞き間違いや理解ミスで作家の意図と違うことを書いていたらすいません。
4月14日18:30 北京市王府井付近 商務印書館内 涵芬楼書店2階
トークテーマ 「推理迷的青春―『新本格』的初期風格」
(ミステリマニアの青春―『新本格』の初期の作風)
語り手:陸秋槎
新作『当且僅当雪是白的』(雪が白いかつそれのみ)のサイン会を兼ねたこのトークショーには40人ほどの若い読者(多分大学生)が陸秋槎のトークを聞きに来ていました。今回は主に日本の1980年代後半及び90年代前半の新本格ミステリについて紹介し、最後に現在の中国ミステリに生まれている『新本格』作品を取り上げました。実はこのトークショーは北京が初めてではなく、4月8日に上海ですでに行っています。その時は上海在住のミステリ小説家陸燁華と時晨もいたようです。
トークで陸秋槎が紹介した日本の新本格ミステリは以下の6作品です。
綾辻行人『十角館の殺人』
我孫子武丸『8の殺人』
有栖川有栖『月光ゲーム Yの悲劇'88』
歌野昌午『長い家の殺人』
法月綸太郎『密閉教室』
芦辺拓『殺人喜劇の13人』
これらのうち、後半3作品はおそらく中国で正式な翻訳版が出ていません。
中国では民間翻訳(ファンが勝手に作品を翻訳し掲示板やSNSサイトにアップする)が依然として盛んです。それは、今回のトークで陸秋槎が早坂吝の名前を出した時に、まだ一作も中国版が出ていない日本の作家に対して笑い声などの反応が起きたことからも読み取れます。
ですが、今から30年ほど前の上記6作品が果たして中国でどれほど知られているでしょうか。それに今回の聴講者はおそらく大学生ばかりです。しかしそれは1988年生まれの陸秋槎も同様なのですが、古く且つ未翻訳の作品を紹介できる日本在住という立場を持つ陸秋槎の強みが感じられます。
陸秋槎は上記6つの新本格ミステリが如何に現実と乖離し、また設定過剰であるのかを面白おかしく説明。聴講者たちはときに笑い、ときに感心しため息をもらしながらトークに耳を傾けていました。
そして後半は中国の新本格ミステリを簡単に紹介。
陸秋槎『当且僅当雪是白的』
胡正欣『悪意的平方』
騰騰馬『烏鴉社』
陸秋槎『超能力偵探事務所』
時晨『罪之断章』、『黒曜館事件』、『鏡獄島事件』
呼延雲『嬗変』
日本の新本格同様、これらの作品もキャラクターや世界観が現実離れしている、動機がおかしい、トリックのためだけに存在するギミックがあります。
自身ももともとミステリマニアだった陸秋槎は『票友』(京劇用語。京劇を見るだけだったが、趣味が講じて道楽で挟撃を演じるようになった素人役者を指す言葉。愛好家という意味)がプロ作家になり、少年少女を主人公として学校生活を舞台にする青春ミステリを書くようになったと説明。日本の新本格作家と同じような生まれ方をした中国の新本格作家ですが、日本の新本格作家が探偵を捨ててストーリー性の高い現実的な作品を書くようになったのと同様の事態が中国でも起きます。
例えば、時晨のように青春ミステリから脱却し大人の探偵が出る作品を書く作家や、呼延雲のように強力な力を持つ非現実的な少年少女探偵が出る一方で市場を考えた内容の作品を書き、青春要素と商業要素のせめぎあいをしている作家が中国でも登場します。
また、陸秋槎は4月16日も14:00から北京市広渠門内大街 建投書局内の北京50+書店にて翻訳者の趙婧怡(東川篤哉や西澤保彦などの作品を翻訳)とトークショーを行いましたが内容は大体同じでした。(この日は50人ぐらいのやはり学生らしき若者が多かった)
ただ、趙婧怡が「なんでミステリの作者ってみんなオタクなの?」という切り口から、森江春策Pの名前でニコ動にアイマス動画を投稿している芦辺拓のエピソードを出すのは流石に笑いました。
陸秋槎はトークショーに来ているような若いミステリマニアが作家になった場合の日本と中国の共通点を語りました。この話が彼らの心にどう響いたのか。彼らの創作活動にきっと良い影響が出たことでしょう。
そして、中国のミステリマニアも作家になれば最終的に自分が愛した新本格を捨てることになるのでしょうか。これは陸秋槎自身の動向に注目です。
『歳月有張凶手的臉』著:孫未
ギブアップ
前作『単身太久会被殺掉的』を途中放棄した私にとって今回はリベンジマッチでしたが半分読んだところでダウンしてしまいました。
本書はSNSサイト『豆瓣』のレビューで高い評価を得ているミステリですが、そもそも私はこれをミステリ小説として楽しめませんでした。どうも私は孫未と相性が悪いようです。しかし、私の周りにいるミステリ好きの中国人も「そんな本読むんなら○○を読め」と言っていたので、合わない人がいるのは間違いならそうです(前回もこんな忠告受けたなぁ)。とりあえずあらすじを簡単に紹介。
教師の宋俊偉は20年前の級友で現在は成金の周乾坤を殺さねばいけない理由があった。ある晩、アリバイトリックまで使って彼の死体を処理した宋俊偉だったが帰り道で自分が遺棄したはずの周乾坤の死体が乗る車を発見する。そして、その車が爆発する光景を見た宋俊偉は自分以外の何者かも周乾坤を殺したがっていたことを知る。ひょんなことから同じく級友で現在は刑事の許心怡から事件捜査の協力を頼まれ、真犯人を追うことになった宋俊偉だが、調査で明らかになったのは級友たちの変貌だった。級友が次々と容疑者となって現れる中、宋俊偉は真犯人を見つけることができるのか。
自分たちが学生の頃にはなかった微信(中国版LINE)を使って同窓会グループを作り、大人になった今でも日常的に当時の同級生たちと連絡を取るという設定が現代中国の世相を反映しています。実際にそうしている人は多いのでしょう。外国人の私ですら、留学時代の仲間がいる微信グループに所属して彼らとたまに現状報告をしています。
微信の音声メッセージ機能に残っている被害者の声を使ったアリバイトリックというのは初めて読んだのですが、微信が2011年にできて、2013年に音声メッセージ機能ができたことを考えるといささか古臭く感じます。とは言え本作はこの微信が事件関係者を結ぶ重要な役割を担っているので、良いアイテムとして存在感を出していました。
20年以上の歳月が経ち微信によって再び交流を取った同級生たちはみな大人になり、ある者は他の同級生を害する冷血漢に変貌します。そんな鬼畜に対し主人公を含めた旧友が復讐の牙を剥くという、『歳月有張凶手的臉』(歳月が人を犯罪者の顔にさせる)にふさわしい展開です。
設定は魅力的、展開もめまぐるしい、しかし読んでいて辛いのは何故か。
それは私にとってこの本がミステリ小説の体をなしていなかった点にあります。
この物語の最大の謎は、自動車を爆破した真犯人は誰か?ということにあります(多分)。しかしこれが全然魅力的ではなく、この一つの大きな謎が物語を貫くだけのパワーがないので、合い間に小さな謎が無数に挟まれることになります。この連続に読者は「全然飽きない!」と思うか「くどくてうっとおしい!」と思うかのどちらかでしょう。私はもちろん後者でした。
謎の小出しとは要するに一つの謎を解決したと思ったらまた別の謎が生まれて、新たな人物から新たな真実が語られるということです。本書では次々と容疑者が出現するのですが、彼らが「容疑者ではない」ことを証明するために割かれるページの多いこと多いこと。「こんなに読んで事件と関係ないってどういうことだ」と怒ったり嘆いたりしたことは一度や二度ではありません。これが400ページ続くのだから、こういう展開が合わない人間にとって読むだけで苦行です。
(もしかしたら最後には全てが収れんするかもしれないが私はそこまで耐えられない)
本編は4つの章に分かれており、私はその前半2つを読んだところで放棄してしまいましたが正直に言うと2章から面白く読めてこのまま読み終わるんじゃないかというぐらいハマりました。主人公の宋俊偉が捕まるまでの1章は苦痛というか、導入部分で100ページも使うのかとうんざりしましたが、1章ラストで宋俊偉の行動もまた真犯人の手の中にあったことが判明した後の2章からは、犯人の一人称視点で進んでいるのに宋俊偉が犯人ではないとはどういうことだと今後の展開を期待しました。
そして、2章ではすでに警察の監視下に置かれた宋俊偉が自分のプライドをかけて真犯人を探すのですが、容疑者の数が多すぎるし、それら全てにスポットを当てるものだから冗長なことこの上ありません。確かに物語は大きな謎の解決に向けて着実に進みますが、○○を殺害したのは実は宋俊偉ではなく、新たに○○の娘の○○が容疑者として浮かんだかと思いきや殺害計画は不発に終わっていたりと、全く遅々としています。
結局私はここでギブアップしました。
実際、『豆瓣』でも冗長さを指摘しているレビューがあります。とは言え、それが決定的な欠点と言われてはいませんし、何よりも100人以上が高評価を下しています。
・自分は時代遅れのミステリ読者なのか?
本書を読んでいるときに、ふと以前見ていたが途中で飽きてしまった中国サスペンスドラマを思い出しました。そのドラマは連続殺人犯を追う刑事の話で、ストーリーでは毎回実行不可能だろうと思う難解な殺人事件が発生します。優秀な刑事の推理によって序盤で犯人が捕まるのですが、実は犯人の背後に真犯人がいて捕まった人間はおとりにすぎなかったという真相が明かされます。そしてまた物語が進み、今度こそ真犯人を捕まえたかと思いきや、実はその背後にまた…という内容でどんどん引き延ばされていき、全数十話あると言うのにまだ10話にもなっていない段階でこんな展開されたらとても見続けられないと判断して視聴を切りました。
本書もまた次々に新しい謎と容疑者が出て来るのですが、一般読者にはここが受けているのです。これは、ドラマのように読者を飽きさせまいと何度もどんでん返しをするミステリ小説が現在の主流の一つであり、これに乗れない私のような作者は時代遅れということなのでしょうか。そして本書のような見どころをたくさん用意している作品は中国ミステリの新しい一ジャンルとして成立しているのでしょうか。
自分が全く評価できなかった作品に多くの人間が高評価を下しているさまをみると、なんだが時代に置いて行かれている気がしてたまらなく怖いです。