何かを発表する人って言うのはおおむね何か自分で自信のある『ネタ』っていうものを持っていると思う。
例えば芸人なら、くりぃむしちゅーはライブ時に
「僕たちのこと知ってるんですかねぇ」
「じゃあ聞いてみましょう。この中で僕らくりぃむしちゅーのことを知っている、または知らない人は手を挙げてくださ~い」
「みんな挙げるだろ!!」
というツカミで数々の会場の客を沸かせました。
またダチョウ倶楽部の数々の『お約束』ネタは何度見ても飽きません。
歌手ならTUBEは『夏』という強力な武器を持っていますし、浜崎あゆみは十代の女の子の心が涙でいっぱいになるような歌詞に一切英語を入れないという工夫をしています。
俳優ならば悪役とかいじめられっ子とか地味とか、そういう役どころを持っているでしょう。
しかしその鉄板ネタだけに頼っていると一発屋として世間に名を知らしめて忘れられたり、イメージが定着しすぎて他のことができずがんじがらめになってしまいます。
そしてエッセイストにも鉄板ネタがあります。エッセイストの誰かではなく、エッセイストと言う職種に鉄板ネタが存在しているのです。いったい誰が最初に書いたか分かりませんが、今を生きているエッセイストでこの鉄板ネタを使っていない人間はおそらくいないでしょう。
エッセイの鉄板ネタ、それは『上手な小説の書き方』そして『エッセイを書いている時』です。
まず前者からいってみましょう。
出だしはたいてい「よく読者から『どうしたら先生みたいに上手く小説が書けるでしょうか?』と聞かれますが」というさわりから始まって、そのあとに「そんなもん知ってるわけないでしょう」という突き放しにかかります。
ちょっと血の気の強い人なら「知ってても教えねえよ」と読者に対してなのか自分になのかわからない怒りをぶつけます。
この『上手な』ってタイトルが付いているから(本物のエッセイにはこんなわかりやすいタイトル付いていません。でもそれらしいことが書いてあります)このあとにこの作家独自の文章上達方法が述べられるのかと思えば、「僕も昔は下手だったよ」などの愚にもつかない打ち明け話をされて、裏技的技術論ではなく真っ当な努力論を聞くはめになります。
原稿用紙をゴミ箱に入れる毎日の中、ある日小説家になれる卵を食べてその日から筆を持たない日がなくなったのだが実はその卵、小説家に寄生して彼の『思い出』を食べる代わりに『ネタ』という糞を出す虫のものだったからさぁ大変。面白い過去があるうちなら良いネタが手に入るんだけど、それがなくなると自分でもつまらないと思う思い出を虫にやり、それすらも切れてしまうともう現実しか売るものがなくなってしまい最後には何も残らず、卵だけが残った。
というエッセイは読んだことがありません。
後者は、読めば読者の側がエッセイストの苦境を知ることができます。
そこに書かれているのは体裁を繕ったメモで、エッセイを書いている今の自分の状況を下敷きにしているエッセイです。『エッセイエッセイ』とでも言いましょうか。作家の今現在が綴られたエッセイからは切羽詰った感と言おうか、倦怠感がにじみ出ています。この話に出会えるのはたいがい最後の回の方です。
作者本人が内容を水で薄めすぎていることを自覚している罪悪感が混じった言い訳じみた話に読者は怒るどころか本当に書くことがなかったんだなと労わりの気持ちが萌えてきます。このエッセイ内エッセイはおそらく作家の側の最終手段でしょう。形を変えた言い訳もアドリブ的な面白さもあり面白いことは面白いんですが、できれば同じ作家で二度は読みたくありません。
この二つがエッセイの鉄板です。
そこまで面白くはないけど、滑ることもない。そしてありきたりなネタであるが故に、いわばエッセイの市民権を得ているので人とかぶっても問題はない。
この鉄板ネタを上手く本に収録しているのが優良とは言えませんが良質なエッセイです。
逆に言えば、これだけテーマが確立している話を二個も三個も書けないってことです。
芸人とかなら同じネタを何度やっても許されるんですが、この鉄板ネタがエッセイ界全体のものである以上、同じ人間が占有することは許されていないのです。