作品を評価する上で、『面白い』『つまらない』の両端以外に、『許せない』って感情がある。
こ れは作者読者問わず持っていることで、例えば『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦は主人公側がただの偶然やパワー、根性気合いで勝つ戦闘を極力描かず、 弱いキャラも能力の使い方次第で誰にも負けない最強になると言うストーリーを描くことにこだわっています。しかし、ジョジョファンなら誰しもが一度は疑問 に思ったでしょうが、ジョジョのキャラクターたちはどれほどの致命傷を負ってもページをめくればかすり傷程度になっているという、古き良き少年漫画の法則 が通っています。
少年漫画的な王道展開を嫌っているのに漫画的な表現に頼っている荒木さんは、前者の法則には納得できていないんです(前者が漫画の方法論で後者が表現論だからそもそも比較にならないと言うツッコミはいらない)。
読者の方はもっと残酷で、今のベルセルクの展開に残念がっている人は大勢いるでしょう。でも作者の三浦健太郎はあのベルセルクの世界に魔法を出すことやガッツの仲間を増やすことに納得(妥協?)したからそれで良いんですよ。だけどそれ以降の購読をやめたと言う人は少なくないでしょう。
そういうことを僕は最近考えていたんですが、この前ノイタミナ枠の『図書館戦争』を観ているときにようやくまとまった。
僕が大学生の時にはもうこの原作本はいくつかの賞を受賞した大作になっていた。有川浩の名前はすでに知ってたので大学の図書館でそれを見つけたときはすぐさま借りようとしたんですが、一応確認のためにページの中間ぐらいを開き読んだらやっぱり面白い。
で も自宅でゆっくり読んでいると面白さにだんだん霧がかかってくる。なんだか主人公の性格やメディア良化委員会とかその他のキャラクターが許せなくなってく るのだ。特に大卒なのに向こう見ずな性格で頑張ればなんとかなるって思っている主人公に腹が立ってしまい先に進まず、結局読み終わらずに返してしまった。
そのときは、主人公に対する嫌悪感だけで他へは漠とした感情しか浮かばなかったんですが、この前図書館戦争を観ているときに、むかし蛭子能収さんがテレビ番組で言ったひとことを思い出してようやく霧が晴れた。
あ る番組に借金でヤクザに追い込まれている一般人がゲストに来て自身の悲惨な生活を語り、その場にいたタレントがみんな彼に同情を示しました。だけど蛭子さ んだけが「でもさ、そういう酷いことをしなくちゃいけないヤクザの人の方が可哀想じゃない?」とスタジオを凍り付かせる発言をしました。
確かにヤクザは悪ですがそれは職業的に悪になる役割を負わされている、仕方のない存在なんだとも解釈することができます。だけどお悩み相談でそんな深いところまで掘り下げられたら話が進まないので、人間性を抜いた悪としてヤクザを出すしかないんです。
そういう面から図書館戦争の敵役メディア良化委員会について考えると、彼らは本当にみんなと同じ義務教育を受けた日本人なんだろうか、思想改造を受けたんじゃないかっていうほどの極悪ぶり。しかも合法的な暴力組織だから戦中の特高組織並にたちが悪い。
そして不思議なのは委員会の社会的立場だ。あの世界はメディアを規制されてはいるが小説を読む人間を格別異端視していないし、一般人が図書館に行くのも自由なので彼らの強権的な行動にはあまり説得力がない。
ヤクザは現実世界で悪ぶる必要はある。だけどあの世界で良化委員会が悪を誇示する意味は、図書館隊が正義であるという理由付け以外何もないのだ。
これは作者が本書をエンターテインメントとして善悪の所在をはっきりと割り切っているのでしょうが、僕はこの構成に許せず読むのをやめてしまったのです。
だ けどもしも図書館戦争がガンダムのように敵側のメディア良化委員会の方の物語も書かれてしまうともはやエンターテインメント小説として成立しなくなっちゃ うし、作者が我慢できなくなって、理由があって行動している『良い』良化委員会なんか書いてしまったらそれこそ収拾がつかなくなるんですよね。
でも僕はたとえ作品世界をぶち壊すことになってもメディア良化委員会の良い面を読みたかった。
この欲求は作者が読者に感じる最も許されざることだろう。
私信・明日から一週間友人と西安へ行くので栖鄭 椎、あとはよろしく