せっかくの留学生活を薄ぼんやりと過ごしている僕ですが、そう毎日毎日中国でダラダラしているわけではありません。
自分で中国語を勉強する以外に、日本語を学んでいる中国人学生に日本語を教えています。こっちの学生は基本的にみな真面目で学究意識があり、えらい人は深夜の二時三時までずっと教室で自習していることもあるほどです。(こっちの学生は寮で数人と共同で住んでいるから、徹夜するのが難しい)
ですから、彼らとは一応相互学習というお互いに教え合うという形でやっているのですが、授業はほぼ日本語ですることになります。
尋ねられるのは主に授業に出てきた日本語の詳しい意味や日常的な知識についてですが、日本の流行やテレビ番組について教えるのはもともとそういうものに疎いので大変です。
去年のある日、授業で習った流行語についてその子に教えることになったのですが、『ロハス』、『ハニカミ王子』『ネットカフェ難民』などを説明するのが難しく、日本人である自分も知らずに使っている言葉というものがいっぱいあることに気付きました。
僕は、日本語を勉強して一生の財産にしようと考えている彼らに対して、自分が出来る限り誠心誠意のことを教えていきました。その相互学習の中で自分が彼らの、そして中国のためになっていると少しばかりの満足感を覚えていました。
でも『どんだけ~』という言葉をジェスチャー付きで教えているときは、涙が出そうになりました。
どうしてもう賞味期限のきれた言葉を、大学を卒業した男が中国人の女の子に披露しているのかと思うと・・・・そりゃあ続いての『そんなの関係ねぇ』という流行語については「ああ、これはギャグだから・・・」と言葉を濁すしかないでしょう。
それで先日は冬休みの宿題である作文、日本語で書かれた『中華料理の作り方』の添削を頼まれました。料理に使われる言葉は日常会話で使われる言葉とはだいぶ違うので、けっこう間違いが多い。単純な助詞の間違いや違和感のある言葉遣いがほとんどなのですが、中には何を言いたいのか予想もつかないものも多く、首をかしげることが多々あります。そういうときは再度中国語で書いてもらって僕がそれを日本語に訳すことで、食い違いを少なくします。
こうして作文を添削していると、恩師の言葉を思い出します。
『翻訳は第二の創作である』と。
中国語で書かれた文章を辞書に基づいて忠実に翻訳して行っても、違和感がある味気ない文章が出来るだけです。よく最近の小説はなんの個性もない『翻訳調』だと言われますが、まさにそういうつまらないものが出来上がります。
だからエキサイト翻訳をかけたような、
『リアル鬼ごっこ』なんていうものが売れるんでしょうね。
僕は中国語の小説を読んでいる時は自分の頭で文章を勝手に翻訳しては、ともすれば内容が少し間違っている作品を作って楽しんでいるのですが、提出しなければいけない作品に気まぐれな翻訳をかけることはできません。なので真面目にやるのですが、読んでいてどうも物足りないというか、ここに手を加えたら面白くなるのになと思うことがよくある。
しかし、学生が一生懸命につたない日本語で書いた作文を勝手に改変していいものだろうか・・・それに、万が一僕の手でそれが面白く生まれ変わったとしても、それはただのねつ造で、彼の努力を冒涜する行為にすぎない。
翻訳とは原作者の意図を汲み取り、文章が持つ意味を崩さないように違和感のない別の言語に変えなければいけない。自分だけが気に入るような文章を書くことが創作ではない。
自分の頭の中にあるドロドロとした感情を劣化させることなくどのように言語化するのか、こういう悩みの果てに創作活動というものは存在する。そして翻訳は他人の苦悩までも理解したうえで、更に自分独自の個性をつけて書かなくてはいけない。これが「第二の創作」というやつなのだ。
翻訳作業も「産みの苦しみ」を味わうことを思い知り、先生のお言葉の真意を見出した。そんな一日・・・具体的にはメッセで中国人の友人の作文の訂正に寝ないで付き合った挙句、そのあと眠れずにダラダラ起きてしまって気が付いたら午前五時(日本時刻朝六時)