北京の降水量は低い。一年で数えるほどしか雨が降らず、年中乾燥していて、町中はいつも埃っぽい。降ったとしても天気雨みたいなもので長く続いたためしがない。そんな微々たる水分で北京市民の生活を賄えるはずがないから足りない水は南から持ってくるんだが、近年では南の方が水不足に困るという事態に発展している。
しかし夏になると北京は大雨のシーズンに入る……と言うよりも夏にしか降らないと言ってもいいかも知れない。年間降水量2000ミリという大都市を維持するには極めて少ない雨量を7、8、9月の雨に頼るんだ。だけど北海道出身の僕から見れば北京の夏は五月から既に始まっている。
しかし暑いだけで水がなければ植物も枯れてしまうので、たまにオジサンが草花に水をかけている姿を目撃する。地面がビチャビチャになるほど水をやっているので根腐れするんじゃないかなと心配になるけど、雨の少ない北京ではこのぐらいがちょうど良いのかもしれない。
だけど今年は違う。まだ6月だというのに周に一回のペースで雨が降り、一日中止まないこともある。先日は道路を川のようにした豪雨が降り、車が横切るたびに波が出来て歩道を覆った。その日でおそらく年間雨量の2000ミリを超えたんじゃないだろうか。南方では大雨による洪水被害が起きて人が死んでいるし、やっぱりおかしいぞ中国。と不安になる。
また別の日。大雨が降った日の翌朝はまだ地面が黒く濡れていて、湿度が高く空気が重かった。そのとき僕は北京でもかなりの富裕層や外国の大使なんかが住む場所を歩いていました。道端の花壇を見ると、湿気に濡れる青々とした草花。そして露をこぼす草花に水をぶっかけているオジサンがいた。
昨夜雨が降ったから良いんじゃないかな……
話は変わってまたまた別の日。僕は国家図書館という中国や国外の本が古今問わず所蔵されている図書館の外で涼んでいた。どんな魚がいるのかわからない汚れた小川を背後にして沿石に腰を下ろし村上春樹の『ノルウェイの森』を読みながら、普段はめったに吸わないタバコ(中南海)を吸っていた。
タバコを吸い慣れていない僕はまだタバコの火を消すのが下手で、靴底で何回も踏まないと煙が消えない。踏み潰した吸い殻はそのまま路上に捨てて置く。ゴミのポイ捨てが社会問題になっているほどゴミの多い中国では路上に捨てられたゴミを拾う仕事があるからだ。罪悪感はない。
僕がふかしている間にも前の方からゴミバサミと麻袋を持ったオバサンが路上に落ちたゴミを拾いながらやって来た。そして周りの人たちや僕が捨てた吸い殻などを拾って歩道を綺麗にした。しかしすっかりみじかくなったタバコを指に挟んだまま僕は悩んだ。今さっき掃除したばかりの道にゴミを捨てられるほど僕はまだ中国に慣れていない。しかもそのオバサンはまだ近くで仕事をしているのだから。
どうしようかと悩んで辺りを見渡すと、歩道からは見えない沿石の陰に吸い殻などの小さなゴミがたくさん捨ててあった。それで僕もオバサンの目を盗み先人を倣って川側の草地に捨ててみたが、結局オバサンは目に見える歩道のゴミだけを掃除するだけで川の方へは一度も目を向けなかった。
このオジサンとオバサンの職業観はとても寂しい。
つまり草木に水をやるオジサンは花を育てることが仕事ではなく、ゴミを拾うオバサンは町を綺麗にするために仕事をしてはいないのだ。自分の仕事はそれだけであり目的もそれに尽きるし、延長戦はない。何の発展もしない結果を知っていながらもやり続ける、なんとも遣り甲斐のない仕事だ。
僕は今まで自分が取った行動の結果の先を見つめられる仕事が普通だと考えていたけど、その当たり前の仕事の下には『明日』ではなくずっと『今日』現在しか見つめられない人間がいっぱいいるのだろう。