しかし大変なことになったな。
日本人留学生のSはそう口を開いた。
彼が言っているのは今や海外でも問題が波及している『メラミン入り牛乳』のことだった。中国の大手牛乳会社数社が牛乳に『メラミン』という薬品を入れて水増ししていた事件は中国人に衝撃を与え、特に最大手だったA社とB社からもその薬品が出てきたと言うことは致命的だった。
オレはAとB社なら安全だと思って勧めたのによ。
ガイドのバイトをやっているSは日本から来る観光客に北京の名跡を案内している。オリンピック中は毎日のように会場へ出向き、その後の買い物からお土産選びまで担当していたらしく、そこで中国の牛乳を紹介したのだ。
C社のは飲むたんびに下してたから、それに比べるとAとB社のはたまに腹を壊すぐらいだから良かれと思ったんだけどよ。
C社とは北京に本社を置く牛乳メーカーで、今回の牛乳騒動の中で数少ない『白』だった会社である。中国メディアやスーパーなどはこぞってC社の牛乳の安全性を宣伝している。
「いくらそのときは何のニュースもなかったとは言え、初めからC社を勧めるべきでしたね」
ボクの言葉にSは持っていた湯飲みを置き、口を歪めた。
C社のが安全だってなんで言える?
SがC社のを勧めなかったのには別な理由があった。
数年前、Sは中国人の友人のツテである省の酪農家にホームステイしていた。
そこの家族は快くSを迎え入れてくれ、一緒に仕事をしたいというSの頼みも聞いてくれた。
農家の朝は早い。家主に連れられたSは早速牛の乳を搾り、バケツ一杯になるまで溜めた。そして搾り取った牛乳をタンクに移し替えて出荷作業に移ろうとしたところ、家主が水の入ったバケツを持ってきた。家主は手慣れた手つきでバケツを抱えると、タンクへ水を入れ始めた。
三割増しが基本だそうだ。
目の前のSが言う。
入れ過ぎると買い取ってもらえないから、水は慎重に入れなきゃいけない。
呆気にとられるSをよそに水を入れ終えた家主は、今度はこんな田舎の農家には不釣り合いな冷蔵庫からビンを数本取り出した。
この薬は水と牛乳を混ぜる薬だ。このままだったら分離しちまうからこれ入れて固めなきゃいけないんだ。
とビンに入った液体を計量カップに注ぎ、タンクへ流し込んだ。
これは水を入れたのを誤魔化す薬だ。これで検査にも引っかからずに済む。
水を入れれば当然、含まれている栄養素の量が普通のより劣る。だから検査をすれば簡単にばれてしまうのだが、調べるのは一部の栄養素の量だけだ。だから、その栄養素だけを薬で増やしてしまえばいい。
そしてこの薬はさっき入れた薬を誤魔化す薬・・・そしてコレは・・・・・・
Sの見ている前で堂々と名前もわからないおかしな液体を注ぎ続ける家主。
こうでもしねぇと高く買ってくれねぇんだよ。手を抜いたらA社やB社に安く買い叩かれちまうからな。
そして家主が薬物入り牛乳を卸した先は、中国のメディアが安全だと言っているC社だった。
あのオヤジだけじゃねぇ。その一帯の農家なら全部やってたぜ。アイツラ、あの薬がどんなにヤバイかなんてわかってねぇんだろうな、危険性は認識してるが魔法の薬っていうぐらいにしか思ってないんだろう。何せ、自分たちが飲むぶんの牛乳だけは別にストックして、100%の新鮮牛乳を毎朝オレに飲ませてくれたからな。
そう言うとSは温くなった茶をすすった。
後日、Sのもとに酪農家からここで見たことは他言しないようにとの電話が来たそうだ。