・北京戸籍を持つ好条件子供部屋おじさん
実はこの本、捜査パートより馬牛の日常パートの方が断然面白い。そもそも馬牛という名前がインパクト絶大だ。中国では基本的に結婚しても夫婦別姓、生まれた子どもは父親の姓を名乗ることが多いが、子どもの「名前」に母親の姓を付ける場合もある。馬牛は馬姓の父と牛姓の母を持ち、10年ごとに名字と名前を交代するという両親の取り決めを守っている。ここでもし、黄天が最後に残した名前が「李強」などありきたりな名前だった場合、同じ名前の警官がそれを見たところで同姓同名の別人を指しているとしか思わないだろう。しかし「馬牛」と書いてあったら、面識がなくても自分に宛てたメッセージとしか思えない。
そしてこの馬牛、北京出身、警察官、30歳で親と同居、と裕福ではないがなかなか恵まれた立場にあり、その上長年付き合っている美人の彼女もいる。しかしいい年して(中国人から見て)結婚願望はないし、2人で住むマンションの頭金を払う貯金すらない。だから、結婚したがる彼女を避けてますます黄天の捜査に打ち込むわけだが、それならさっさと別れればいいのに、こんな美人の彼女とは二度と付き合えないという下心があるせいで彼女が結婚を諦めるまで待とうとし、その結果どんどんドツボにハマり、彼女を道連れに不幸にする。正直、今まで少なくない中国のミステリー小説を読んできて、いろんなダメ警官を見てきたが、ここまで情けない男は初めてだった。
ミステリー小説では、明るい性格の彼女にリードされたり、何も取り柄がなさそうなのに可愛い女の子と付き合えたりする男をよく見掛ける(というか、本格ミステリー小説って漫画『BOYS BE』的なところがない?)。しかし、恋人と別れたくもないけど結婚したくないもないから仕事に打ち込んで答えをズルズル引き伸ばすという、こんな往生際の悪い男は見たことがない。
確かに中国では最近、結婚したくない若者が増えているそうだが、そういうのってだいたい、相手がいないから結婚できない(結婚したくないから相手を探さない)だとばかり思っていたので、まさか相手はいるし親からも応援されているけど結婚には二の足を踏むという馬牛みたいな男がいるとは考えていなかった。しかも読んでいると、馬牛の実際のモデルを知っているかのようにすっげぇリアルに感じてしまい、結婚から逃げ回っている情けない様子が他人事ではないように思えてとても嫌だった。
・お上りさん向けの北京観光?
本作のもう一つの特徴は、馬牛らが北京のあちこちに足を運ぶこと。事件現場となった北京の商業地区の中心地・国貿、事件の目撃者がいる建外SOHO、国際的な市場・三源里市場、昔は韓国人街だったという望京、さらに馬牛がスタンダップコメディアンとして働いているバー老書虫がある三里屯などなど……北京に詳しい人はこれらの地名を見てアレッ?と思うかもしれない。そう、ここに登場するのは北京でも特に有名な、地方から北京に来た人間がよく行く名所ばかりなのだ。
東京で言ったら渋谷、原宿、池袋……みたいに「いかにも東京!」というシンボル的な街ばかり登場させている。ある都市を舞台とする場合、もっと目立たない場所を深く掘り下げるやり方もあるだろうが、本作はえらく表層的で、まるで北京との融合を避けているように見える。だからこそ、北京に住んで10年以上経つとは言え「外地人」である自分は読んでいる最中「あるある」と頷きっぱなしで、「三源里市場にうろつく物乞い」とか「韓国人がすっかり消えた望京」とか、実際に見たことがあるだけに脳裏に簡単に浮かんだ。とは言え、老書虫でトークショーが行われているとは知らなかったが……(ってか2019年に閉店したんだっけ?)。
この北京描写の薄っぺらさは作者慢三のプロフィールを読んで納得できた。なんと彼は北京人ではなく湖南省出身であり、彼の経歴も主人公の馬牛より被害者の黄天の方に近いのだ。私が親近感を覚えるのも当然、彼も北京で暮らして私と同じような印象を多く持ったんだろう。
・今の北京で成功を前提とした大犯罪は可能?
肝心のミステリーパートは、関係者に聞き込みに行くほど生前の黄天の人物像があやふやになり、それがそのまま黄天の死因が自殺か他殺かの判断につながる構成になっている。街中を網羅している防犯カメラのおかげで、事件当時、黄天にそれぞれ因縁を持つ3人が彼の車を囲んでいたことが発覚。もうこんなのゲームセットだろと思うのだが、いかんせん現場も証拠品もとっくに全部片付けられて直接的な物証が何も残っていないため、逮捕にはつながらない。
ここで重要となってくるのが、そもそも黄天はなぜ「馬牛」の名前をダイイングメッセージとして残したのかということ。黄天が自殺なら他殺に見せ掛ける必要はないし、他殺ならもっとマシなメッセージがあるだろう。まるで警官の馬牛に「事件」として扱ってもらうのが目的のような行動に、馬牛はようやく、関係者からの聞き込みなどではなく、黄天そのものを調査する。そこで黄天が生前に隠していた大きな秘密が明らかになるというわけだが……黄天の真相が分かってから展開は本当に「驚愕」のひと言に尽き、まさか国際会議を間近に控えた北京でこんな大犯罪が起きてしまうとは……と唖然とさせられた。「こんなん無理だろう」というのは作者が一番分かっているはずで、こんなバカな犯罪に突き合わされた黄天が本当哀れだ。
本作には2人の主人公がいる。1人は、夫や父という自分像が思い描けず結婚よりも自分を優先させた馬牛。もう1人は、結婚し家族のために働きどんどん疲弊していった黄牛。
黄天は自分の命を燃やして働き、時にはライバルを蹴落として恨みを買うこともあったがそれらは全て家族のためだった。しかし自動車のエンジンのように会社や家族を引っ張っていった彼は、最終的に尾気(排気ガス)になるまで燃え尽きてしまう。彼の妻、謝雨心も彼という自動車に乗っているだけの利用者にすぎなかったのか。
本作に出てくる女性たちは(男の目から見て)本当にたくましい。自発的に動かない馬牛の代わりにマンション購入や結婚準備に取り掛かり、彼と別れてからすぐ新しい彼氏をつくった馬牛の元カノも、黄天が死んだ後も子どもを守るために知恵を絞って敵と戦う謝雨心も、冷静さと判断力が男連中の比較にならない。
この本を読み終えて、東野圭吾の『白夜行』が中国で流行る理由の一部が分かったような気がした。今まで、男が自分の身を犠牲にしても女を一途に守るところが受けていると思ってたんだが、どんな犠牲を払おうがしぶとく生き延びる女の魅力にこそ人気の秘密があったんじゃないだろうか。
あと、本作は一応保険金殺人も絡んでくるんだが、保険会社がほとんど出ないのが気になった。生命保険を複数加入していた奴が変な死に方したのに遺体が速攻で遺族に処分されたって、保険会社から警察にクレーム入れるレベルだろう。