翻訳ものを数多く取り扱う出版社で、とりわけ推理小説に関しては比類がないほどの量を出している。世界中の名作を時代の新旧関わらず出版し、日本人作家では島田荘司、東野圭吾らビッグネームを、最近では米澤穂信の作品などを世に出している。
この本の著者褚盟は新星出版社に勤める80後(1980年代生まれ)の編集者だ。
彼がこれまで手掛けた海外ミステリ作品は数え切れない。エラリー・クイーン、ローレンス・ブルック、ヴァン・ダイン、松本清張、島田荘司、東野圭吾、二階堂黎人、麻耶雄嵩らの著作など、彼が扱った小説は100部を超える。
島田荘司の《占星術殺人事件》が中国で正式に翻訳出版されたのも彼の功績である。
本の表紙裏には彼が手掛けた日本人作家たちの推薦文が載っている。
ここにその推薦文を訳したものを拙訳ながら転載したい。
日本語を中国語に訳した文章を再び日本語に戻しているので、発言者の意志を必ずしも完全に再現できてはいないだろうが、雰囲気ぐらいは表せていると思う。
褚盟さんが本を出版したと聞いて、自分の本が受賞したと知ったときよりも嬉しくなった。
2011年直木賞受賞者 道尾秀介
この本からは推理小説に関する豊富な知識を学ぶことができる
西澤保彦
褚盟さんは中国で最高の推理編集者だ。きっと読者に受けるだろう。
二階堂黎人
世界推理文学通史として、この本は前例のないものになるだろう
米澤穂信
褚盟さんは私が出会ったなかで最もマニアックな推理小説編集者だ。
山口雅也
推理小説の読者として褚盟さんの本は是非読んでみたい。
有栖川有栖
さて、日本の著名小説家たちの覚えめでたき褚盟の本はいったいどのような出来に仕上がっているのか。
世界の推理小説の概要書なので各章ごとに、ポーやドイル、松本清張など有名な小説家を取り上げて、彼らの出現がミステリの歴史にどのような影響を与えたのかを豊富な資料をもとに書き起こしている。
有名どころを押さえているので、推理小説というジャンルに興味を持ち始めた読者が読むには最適のマニュアルだろう。また褚盟の意見は卓見なのか私見なのか判別がつかないけれど、眼を見張るものが確かにある。
なかでも日本の章でジョン万次郎が日本の推理小説に重大な意味を持っているという説には衝撃を受けた。褚盟が言うには『江戸川乱歩、横溝正史、松本清張、そして島田荘司は日本の推理小説の歴史を語るときに必ずジョン万次郎を取り上げた』らしいが、それは本当だろうか。
また世界推理小説と銘打っているだけあって中国の推理小説にもきちんと言及している。だがその筆致は優れない。“中国推理小説の父”である程小青が活躍していた時代こそ、その当時の日本より推理小説のレベルは優れていたかもしれないが、それ以降全然パッとしない理由について彼は冷静に分析する。
彼にしてみれば、一番親しく詳しいはずの現代中国のミステリ界はイヤでも触れざるを得ない問題でもあるのだ。
ここにこの本の末章《我不想和這個世界談談》(この世界と話したくない)の文章を転載してみたいが抄訳でもかなりの分量になってしまう。だから褚盟が指摘している現在の中国ミステリ界の不興に関する3つの原因についてのみ抜き出したい。
その1、文化の違い
中国文化は比較的に人文学を重視し、自然科学の発展は西洋や近代日本と比べて遅れている。また、中国人はガチガチのロジックの特訓や実践を軽んじて、“悟り”(注:直感みたいなものか?)というもの信じている。これが中国の小説家が知識を蓄える上と思考方法の上で重大な欠陥を招くことになった。この2つが推理小説の執筆にとってどれほど重要なのか言うまでもない。
その2、創作における根本的な欠点
日本の小説家は往々にして驚くべき知識量を持っている。自分が興味のあるジャンルでは専門家と遜色のないぐらい博識である。いくつか例を挙げてみると、京極夏彦は妖怪文化に対して造詣が深く、伊坂幸太郎は音楽や映画に詳しく、道尾秀介はフロイトの知識があり、三津田信三は民俗学の理解がある……日本の小説家は博覧強記を背景に想像力を大胆に働かせて自らの知識を想像の中に注ぎ込み、絢爛豪華な推理世界に派生させる。
中国の小説家はこれとは真逆だ。彼らの知識量は絶対的に不足しており、一般的な知識すらも抜けている。筆者はかつて『氷をプールの底の排水溝に詰める』という“トリック”を読んだことがある!
また中国の小説家の想像力も有限である。その上、大量の外国作品を参考にした形跡がありありと見える。自分なりの路線を走ることができないのだ。
もし日本の作家の創作のプロセスが“思いきり良く想像し、注意深く証拠を探す”だとするならば、中国作家たちの創作の過程はまさにその正反対である。
その3、環境が極端なまで功利的
中国の読者は自分好みの傑作ができるだけ早く世に現れることを期待している。これは疑いようもないほど大きな力である。だが現段階ではこれらの期待は作家と出版社への軽々しい否定にもつながり、攻撃的な悪口にもなる。個人の好き嫌いによってその作品の良し悪しが決まってしまう。客観的な基準と寛容な心のない『ほめ殺し』でも『殴り殺し』でも(注:原文では捧殺(ほめ殺し)と棒殺(撲殺?)で掛けている。出典は魯迅らしいのだが資料がないからよくわからない)、そのどちらも作者の成長の手助けにはならない。
出版業界が目先の利益のために急いでいることも見え透いている。現在に至るまで中国大陸には作者のやる気が出るようなミステリ賞の類は一つとして存在していない。比較的マニアックな推理文化を紹介する新聞や雑誌も一冊としてなく、中国の京極夏彦や中国の東野圭吾を育てようとする出版社も一社もない。
中国で海外ミステリの名作がいくら翻訳されようが、推理小説を書くことに中国人の小説家自身が慣れなければいつまで経っても傑作は生まれない。そして実力と想像力を培った彼らの受け皿をきちんと用意することこそが、出版社が現在抱えなければいけない緊急の課題なのだ。
中国推理小説の低調の責任を負うのは書き手側だけではない。
数多の海外作品に触れることができ、誰よりも客観的な視座を養えた編集者褚盟だからこのように現状に対する根本的な不満を感じているのだろうか。
和洋東西、時代の隔てなく推理小説の歴史を簡潔にまとめあげた著書の締めは島田荘司のあとがきだ。
筆者褚盟とも面識があり、彼に30以上の作品を翻訳出版してもらった島田荘司はこの本の出版を非常に喜んでいる。そして1人の推理小説家として、36歳も年の離れた褚盟に敬意を払っている。
褚盟が中国国内の推理小説家だけで1冊の本を著せるまであと何年かかるのだろうか。
そのときこそ褚盟の名前が日本のミステリ読者の間の共通名詞となるときであり、彼が初めて翻訳出版業務を委託するときとなるだろう。
※この本の内容に関する不満は何もない。しかし欲を言えば、これだけの本を著すのに費やした参考資料を一覧で載せてほしかった。