『島田流殺人事件』について説明をしよう。
この作品は中国人の推理小説家御手洗熊猫が自費出版した上下巻500ページからなる大長編推理小説だ。名前を見てもわかる通り日本推理小説界の大家、中国では《推理之神》と呼ばれる島田荘司に多大な影響を受けている。
作品のあらすじはに、管理人のDokuta氏とボクが作った日本語訳が載っているのでそちらに目を通していただけたらと思う。
だが一度作品を読み終えた読者として改めて簡単なあらすじを書いてみたい。
体がバラバラになる白い巨人アゾートの妄想に取り憑かれ、狂気の果てに自殺した梅澤。彼が住んでいた廃墟から頭部や腹部や腕など体の一部分が欠けた焼死体が6体見つかった。
事件の真相を究明する警察と御手洗濁のもとに映画監督の鴉城がある動画のデータを持ってきた。それはとある人物が自分の眼に仕掛けた超高性能の小型カメラによって撮影されたものであり、その動画には『流氷館』という奇妙な洋館で起きた殺人事件を『新島田荘司研究会』を名乗る面々が推理するという異常な光景が映っていた。そして映像は会員全員が死に倒れてカメラを仕掛けていた人物の死体が映ったところで幕を閉じる。
御手洗濁が友人の石岡次郎にその映像を見せると、石岡はとんでもないことを告白した。実は石岡は20年前に『島田荘司研究会』という組織に所属していたのだ。だが会員全員が集まった『アゾート塔』と呼ばれる建物で殺人事件と火災が起こり、石岡ともう1人の会員以外全員死んでしまったという。
梅澤の廃墟から出てきた6体のバラバラ死体と『流氷館』の殺人事件、そして『アゾート塔』には一体どんな繋がりがあるのか。何故どの事件も島田荘司の小説を真似ているのか。
絢爛たる『島田流』な難事件の数々に御手洗潔のモデルとなった流浪探偵御手洗濁が挑む。
この大長編にボクは楽しむことができなかった。いや、理解することができなかったと言うべきだろう。
以下にボクがこの作品にハマれなかった原因を書いていく。
これを読んで「阿井とか言う野郎は中国語も推理小説も全然わかっていないトーシロだ」という人がいたら誰でも良いので正解を教えて欲しい。この小説の読解者がいることを切に願う。
まぁ御手洗熊猫本人に「求求答案」と聞くのが一番の近道なのだろうが、それはあまりにもはしたないのでやらない。
そして御手洗熊猫に、作品を理解できなかった読者がレビューを書くという冒涜行為をして申し訳ないとこの場で謝っておく。
まずはボク個人の理由だ。
1,島田荘司の作品を読んだことがない
島田流と銘打っているようにこの小説は島田荘司の傑作を下敷きにして、新たにオリジナルのトリックを創作している。その傑作とは『占星術殺人事件』、『斜め屋敷の犯罪』、『北の夕鶴2/3の殺人』、『異邦の騎士』、そして『奇想、天を動かす』の5作品だ。
恥ずかしながらボクはこのうち1冊も読んだことがない。せいぜい『占星術殺人事件』のトリックを『金田一少年の事件簿』で知ったぐらいだ。
この5作はあくまでも模倣の対象として作品世界に登場しているだけであり、物語はこれらの小説を読んでいなくても理解できる内容となってはいる。だがこのような同人誌的な作品に没入できるか否かは予備知識の有無にかかっているのではないだろうか。
作中で島田荘司研究会員たちが、社会派ミステリが台頭して本格推理が衰退したことを憂えるシーンがあるのだが、これはまさに島田荘司の『占星術殺人事件』が出版された背景そのものだろう。
こういう小ネタに反応できなければこの本の読者たる資格はない。
2,中国語能力の不足
ボクは中国語を勉強している一般的な日本人より中国の推理小説を読んでいるつもりだ。しかしまだ片手に辞書が必要なレベルであり、読み間違いなんてしょっちゅう起こす。
そしてこの小説に使われているトリックが複雑で素人には理解するのが厳しい。日常生活ではまず使わない物理の単語や数式を持って来られて説明しても、頭の中でその場景を想像するのは困難である。
3,推理力が足りない
中国本土には今作のように奇妙な館が出てきたり大掛かりな装置が必要な推理小説はまだ数が少ない。
熊猫は自分が愛している本格推理小説のジャンルが遅々として発展しない現状に懸念を抱いていた。それがこの長編小説を自費出版でも構わず世に出した動機だったのだろう。
そこで彼は本格ものを読み慣れていない読者へ向けてトリックの解説を詳細に書き表し、『流氷館』や『アゾート塔』などの見取り図や仕掛けが複雑なトリックに40以上の図解を費やして説明を補っている。
しかしただでさえわかりづらい解説(ボクにとって)を読んでもその光景が全く想像できないのに更にそこに上のような単純な図解が加わると、もはや全景が掴めない。
熊猫が対象にしているこの作品の読者は一定以上の推理力を備えている。中国国内作品ばかりでなく海外ものにまで目を通していないと読み解くことはおそらく不可能だろう。
ここから作者と作品の批判である。
4,くどい
中国人の読者も言っていることなので遠慮せず言うがこの本は『くどい』。『くどさ』は御手洗熊猫作品の持ち味ではあるのだが、流石に本作は中国人も『煩瑣である』と指摘するほどのしつこさだ。
登場人物の口を借りて社会派ミステリ批判を言わせたり、新本格とは何かという議論を戦わせたりするのは別段に気にはならない。行き場のないミステリ論を風船みたいに詰め込んでいる御手洗熊猫らしい発散の仕方で、このやり方には安心感すら覚える。
だがその議論の内容は日本人が今まで語り尽くしたミステリ論を再燃させているだけなので新鮮味はない。この点で言うと御手洗熊猫は悲しいほど原理派だ。
また下巻の250ページの大半が探偵御手洗濁の推理独演会なものだから、その台詞の本流には息苦しさを覚える。
書きたいことが山ほどあるから大量のページを費やすことになる。探偵が語る唯一の信憑性を増すために「この解釈には無理がある、矛盾が生じる」として他の可能性を1つずつ潰していく手間もまた必要だ。
だがせっかく筆を費やしたのだから、もう少し読者に優しい文章運びを心がけて欲しかった。でないと苦労をした作者自身が報われない。
5,なんか無為なんじゃないかなぁって思う
誤りや見落としがあるが大胆なトリックだ。
細かい点で矛盾がある。
全体的に楽しかったが欠点がないとは言えない。
これらはみな中国人レビュアーの言葉である。みんなネタバレを避けてか具体的にどの箇所かは言及していない。
だが彼らの発言を踏まえて、「このトリックには無理があるんじゃないか」と気付いた自分を顧みると、その直感は案外正しかったんじゃないかと思ってしまう。
ただしその一方で推理小説としての根幹であるトリックの現実性については全く触れていないので、その点に関しては理解できなかった自分の取り越し苦労のようにも思える。
つまり、何が正しいのかわからなくなってしまった。
6,トリックのためのトリック
為了詭計而詭計(トリックのためのトリック)
この言葉は常人には理解されない業とも言うべき《トリックの病》に罹った『真犯人』を支える行動原理である。
真犯人はトリックのために凄惨な犯罪を実行し、トリックのためなら人を殺してその死体を弄ぶことも厭わず、トリックのためなら命すら捧げることも惜しまない。
そして真犯人はトリックを至上命題にしている以上、探偵に対して非常に誠実な態度で応じている。
「彼らは推理小説の基本原則を遵守しているんだ。“読者”を欺くようなトリックを使うとは思えない」
「だったら合鍵を作るなんていう卑劣な手段をとるわけないよ」
「真犯人はいかなるアンフェアな手段も使わずにこの叙述トリックを実現させたのさ」
探偵が真犯人に寄せる信頼は上の発言からもわかるように、メタ的なほど深い。それはつまり読者にこの小説の現実性を増させたい作者側の意図である。
確かにトリックはどれだけ荒唐無稽であっても決してアンフェアなことはしていない。だが事件を解決に導ける材料が全て提示されていても、だったらそれら全て無抵抗に飲み込めるかと言われればそうじゃない。
小説の舞台がいくら現実世界とかけ離れていても、犯人の動機が正気の沙汰ではなくても、トリックが想像もつかないほど荒唐無稽でも推理小説においてはその全ては魅力に繋がる。
しかしそのどれもが説得力不足だと話にならず、リアリティが感じられない。
『トリックのためのトリック』と強く意識したばっかりにトリックだけを重視してしまい、肝心の世界観の説明やフィクションを現実に歩み寄らせる作業がお粗末になっているのだ。
・全部ひっくるめた評価
島田荘司への尊敬と信仰が込められた『島田流殺人事件』は御手洗熊猫の作家人生の集大成でもあり彼が持つ美意識の塊でもある。それはこの小説の表紙をめくったトビラに記された献給島田荘司、献給新本格という献辞からも明らかだ。
およそ常人の頭では想像できない怪事件をいくつも実行した真犯人は、人の命を奪うことなど少しもためらっておらず自身が考え抜いたトリックのために大量殺人の惨劇を繰り返した。
しかしこの異常なほど推理小説に耽溺し不可能犯罪の魔力に取り憑かれて、誰もが仰天するトリックを実行するために誰にも解けそうにない謎を企てる真犯人こそ作者である御手洗熊猫の真の姿だろう。
作品の終盤、御手洗濁と真犯人との間でこのような会話が交わされる。
「お前は“トリックの病”に罹ったままだ」(中略)
「では、“トリックのためのトリック”の小説をどう見るかね?」
「偉大で混じり気のない純然たる小説だ」
「しかし私がなんのトリックの病に罹っていると言うのかね?」
“トリックの病”に罹っているのは他でもない作者自身だ。熊猫は自らが発案した奇天烈なトリックを読者に教えたいがために、一般人にはなかなか理解できない物語を編み、自費出版という形で世に出す。
作品の中でトリックを現実化する以外、ストーリーを合理的にまとめることなどあまり重要視していないのだ。
だがトリックに重点を絞っただけあって作品にはパワーがある。『鏡写し』をテーマにしたトリックの数々、斜め屋敷というモデルがあるとは言え架空の館に縦横無尽にトリックを仕掛け、『占星術殺人事件』とは異なる人体結合トリックを描く際には自由な発想をもってバラバラ死体をこれでもかというほど弄んでいる。
だからこそ読者を無視してトリック至上主義に走り、作家としての本分を蔑ろにした点が残念でならない。そして熊猫の業の深さをまざまざと見せつけられた。
・御手洗熊猫先生の次回作にご期待ください
『島田流殺人事件』が中国本格推理小説の礎となる日が来るのだろうか。ボクはないと思う。少なくとも今のところはまだ捨石にしか見えない。だが、あだ花では決してないだろう。
その結んだ実こそが熊猫が現在執筆中の『混濁館殺人事件』であることを信じている。