『氷血:零下30℃的刑偵現場』著:薩蘇
著者の薩蘇は日本在住の軍事史学者で専門は当然日中戦争(抗日戦争)時代。中国では小説家としてより歴史家として有名だそうで、知人の中国人も小説は初めて読むが専門書は大学で読んだと言っていた。
8月某日の新刊トークショーで薩蘇は「私にとって歴史を書くのも推理を書くのも一緒」と言っていたが、本書を読むと果たしてこれも「推理小説」のジャンルに入れて良いのか疑問が湧いた。
本書は短編集だがここに掲載されている事件すべて中国で実際に起こった事件であり、実際の事件をモデルにした創作でもない。著者は、日中戦争従軍者で戦後は公安として主に中国東北部で起きた数多くの事件を担当した老丁という老人から聞いた話を小説仕立てで書いている。
表題作「氷血:零下30℃的刑偵現場(凍れる血:マイナス30℃の捜査現場)」は1986年2月に吉林省で起きた実際の列車爆破事件を扱っており、老丁らをはじめとする捜査関係者の活躍や当時の捜査方法や事件背景などをつぶさに描写している。おそらくそこには多少の誇張はあれども虚偽はないだろう。
老丁が語る近代の事件簿は非常に面白い。「西辛荘的『邪門』殺人案(西辛荘の『異常な』殺人事件)」は検視の結果明らかに他殺であるにも関わらず被害者の父親が「事故だ」と主張し、そればかりか他の住民まで「事故だ」と言い張り、ついには被害者の父親が出頭するという有様で、村単位で何かを隠している様子に薄気味悪さを感じさせる。
また「吊死鬼島血案(首吊り島殺人事件)」では冒頭で作者と老丁がテレビを見ていると、日本兵役を演じる日本人俳優が「監督から雪原の中で強姦シーンを演じろと言われたが、あんな寒いところでケツを出してそんなことするヤツいないだろう」という愚痴から物語が始まる。この日本人俳優とはおそらく渋谷天馬のことを言っているだろう。
ちなみにこの「吊死鬼島」とは敗戦時に日本兵が集団自決した場所らしい。
このように舞台が中国東北部であることから、老丁の語る話には日本軍そのものこそ出てこないが、あちこちに戦争の残滓を感じさせる。
ただ本書後半部分に掲載されている1940~50年代の国共内戦による国民党の匪賊との戦いは冗長で読むのに疲れた。これを後半に置いているから恐らく作者が本当に書きたいドキュメントはこっちなのだと思うが、パターンとしては「悪しき国民党の暴徒が勇猛果敢で正義感溢れる共産党に敗れる」しかないのだから、私のような非共産党員にとっては本の中で如何に銃撃戦や知略戦を繰り広げようとも退屈でしかない。
中国では1950~60年代ぐらいに国共内戦を題材にしたミステリ小説ばかり生まれたが、その大半がミステリ小説とは名ばかりの「反特務(反スパイ)小説」ばかりだった。
本当にあった事件を小説化したドキュメンタリーが果たしてミステリ小説なのか。それはただのドキュメンタリーなんじゃないのかと思うが、中国のミステリ小説史を見ると公安や警察や共産党の活躍を描く作品もミステリ小説としてカウントしても良いのかもしれない。