著者の巫昴は詩人。日本在住の推理(SF?)小説家・陸秋槎と同じく上海復旦大学出身だが、ミス研にいたわけではないようだ。これまで詩の他に長編小説を数冊出しており、最近は推理小説を何本も書いているとのことだ。本書は新星出版社から出ているが、この出版社はよく、非推理小説家に推理小説を書かせる。それ自体は新鮮味があるし、その作家のもともとの読者に推理小説に興味を持たせ、新規読者層の開拓に貢献しているが、出来上がった作品の大半は「これじゃない」感が強い。本書も例外ではない。
私立探偵の以千計は、依頼を受けて中国大陸から香港へ飛ぶ。縫い合わされた男女の死体の写真を見せられた以千計は、4年前から行方不明となっていた被害者男性の兄だという依頼人から、二人の死体と犯人を見つけるよう高額な報酬で雇われ、あの有名な重慶大厦(チョンキンマンション)に住むことになる。しかし香港を動き回ってすぐに、今度は被害者女性の夫という人物から接触があり、彼からも事件の解明を依頼される。夫婦でもない男女がどうして殺されて一緒に縫われたのか。その謎を解明する鍵は重慶大厦にあった。まだデモが起きる前の2016年の香港を舞台にしたハードボイルド小説。
実は香港には一度しか行っていないので、本書で描写されている香港、主に重慶大厦のいかがわしさや猥雑さの再現度がどれほど高いのかよく分からない。中国の大手レビューサイト豆瓣で本書の評価を読んでみると、映画『恋する惑星』(現代は重慶森林)より描写が細かく誘惑的だそう。そして以千計がよく食べ、建物内に常に香りを漂わせるカレーも重慶大厦の名物らしい。そういった他者からの評価を含めると、本書の描写力はやはり見事だ。癖になりそうな人間や食べ物の臭いや、海辺を飛び回る鳥、そして裏社会を生き抜く男たちや社会生活に逼迫する女たちを描くことで、重慶大厦を中心にした香港を描こうとしている。さすが著者は記者もやっていた詩人だけあり、文章だけ読んでいると推理小説としては無駄な表現が少なくないが、猥雑感のあった香港を作品に残そうとする気概が感じられた。
主人公の以千計は、中国では違法な職業である私立探偵だ。もともと日本で暮らし、日本人女性との間にもうけた柿子という娘もいるが、理由あって中国に帰国したという設定。アルコールで脳を活性化させ、辛い境遇にある女性をたらし込む才能を持つ彼は、豆瓣でフィリップ・マーロウやマット・スカダーを思わせると書かれている。
以千計からは、中国ミステリーにおける探偵の一つの生き方が提示されている。確かに私立探偵は違法だが、だからといって「探偵」という概念が消えることはなく、ニーズがあれば個人に大金で雇われて、警察では対応できない事件捜査に当たることができる。香港という場所では、彼のように強い背景を持つ人間も目立たず生きることができる。重慶大厦という様々な人種や職業が入り乱れ、合法と非合法の境界が不明瞭な場所は、彼のような人間に必要なのだ。しかし2022年現在、重慶大厦が本書のようなカオスを保っているのかは不明だ。
男女の死体をチョウチョの形に縫い合わせる犯人の目的や正体は非常に気になるだ。だが本書では、「皮匠」(革職人)と呼ばれる犯人にはあまり目が向けられず、被害者男女の特に女性の余愛媛に焦点が当たる。非香港人の彼女は大学時代に重慶大厦に魅せられ、ここを卒論のテーマに選んだ。これが事件に関係していると以千計は推測するが、彼女の関係者から話を聞くうちに、余愛媛も一筋縄ではいかない被害者だと分かる。金持ちと結婚した彼女は物価の高い香港で必死に働いて日銭を稼ぐ彼女の友人や外国人女性らと比較されるが、それはもしかしたら香港で生きる全ての女性に平等で与えられているチャンスを勝ち取っただけかもしれない。だが結局のところ、彼女は浮気相手と共に縫われてしまった。
話の重点が余愛媛から動かないまま中盤まで進むので、読んでる方としてはこのまま犯人の正体にまでたどり着いて、事件が解決するのか不安になってくる。実際、本書のタイトルは「床下的旅行箱」(ベッドの下のスーツケース)だから、序盤で思わせぶりに登場する鍵付きのスーツケースに何か重要な手掛かりが隠されていると思いきや、事件の核心に全く関わらないのだ。その嫌な予感は最終的に当たってしまい、ラストは目移りするような場面展開とスピード感と共に急落し、締まりが悪い終わり方をする。
ハードボイルド小説の雰囲気だけは100点満点だった。シリーズ第一作なので、これからも香港を舞台にするのかという疑問も含め、今後に期待。