作者の午曄は宝石鑑定士や大学教授、セキュリティエンジニアなどの肩書を持つ、現代中国ミステリー界隈では古参の作家の一人で、中国のミステリー専門誌『推理』などでよく短編を発表していた。代表作に女性スパイの活躍を描いた『罪悪天使』がある。
本作は彼女の経歴がふんだんに盛り込まれており、唐代の文物にまつわる謎、ほぼAI化された防犯システムの急所を突く窃盗方法など、中国の過去と確実に訪れるであろう未来を描いた近未来を舞台にした中国スパイ小説だ。
2033年、唐代の文化財・昭陵六駿のうち、アメリカに流出したままになっている残り二つの馬の石刻についに「一時帰国」のチャンスが訪れた。アメリカの博物館から一時的に2体の石刻が戻り、中国の博物館で6体揃って展示することができるのだ。情報セキュリティ対策専門家の袁楓は博物館学芸員の沙婕に触発され、6体揃った昭陵六駿を盗み出し、頃合いを見計らって祖国に返還する計画に参加する。ハッカー集団「錯覚方程式」がつくったコンピュータウイルスを使い、博物館のセキュリティシステムを混乱させ、昭陵六駿が保管されている部屋にたどり着いた袁楓。しかし肝心の国宝はすでに何者かに盗まれており、彼らは国宝を盗んだ犯罪者と間違われお尋ね者となってしまう。仲間が敵に、敵が味方になる混乱した状況で、袁楓は今度こそ昭陵六駿を取り返すことを決心する。
作者は本書の序文で、この本は誰かを責めるために書いたものではないと言い、創作のきっかけは海外の博物館で中国から流出した文化財が展示されているのを見たことだと述べている。中国の悠久の歴史には無数の創作の題材が埋まっているが、このような歴史も立派なネタの一つである。
『黄金塔』のあとに読んだせいで、気分が暗くなって途中で読むのをやめてしまった。本書に書かれた昭陵六駿が散逸した理由を読んでいくと、外国人として負い目を感じてしまうからだ。
AIに頼りすぎたセキュリティの弊害を書いて今の中国が進めているハイテク化に警鐘を鳴らすとともに、文化財に隠された未来への暗号を読み解いて中国の歴史や文化を大切にしようと人々を啓蒙しているのが本作だが、もう一つ大きなメッセージがある。それは、強くなった中国は他国と正々堂々交渉できるのだから不法行為はやめようという戒めだ。
本書で袁楓たちは愛国心に突き動かされて、まだ他国の財産である文化財の盗みを決行する。金銭欲に動かされたわけでも、庶民のための義賊でもなく、言わば愛国怪盗としてお国のために盗みを働くわけだが、その結果、第三者に先を越されるという最悪な事態になってしまい、中国の博物館にも迷惑をかけてしまう。浅はかな愛国行為は国を害するだけという忠告が込められているが、その背景にあるのは、弱くて文化財の流出を食い止められなかった過去と異なり、中国はもう個人の義憤に頼らなくても他国と正面から渡り合えるという実際の自信だろう。
本書の舞台は2033年という近未来だが、実際あと10年もしないうちに中国は流出していた文化財を国内に取り戻すんじゃなかろうか。そして返還文化財展覧会なんかが中国で開かれた時、果たして自分は楽しく鑑賞できるだろうか。きっと居心地悪いだろうなぁ。