中国唐代に実在した政治家の狄仁傑(ディー判事)を主人公にした歴史ミステリー小説。
朝廷から使者として甘州(現在の甘粛省)の張掖に派遣された狄仁傑とその部下たちは手厚い歓迎を受けるが、数々の殺人事件とも遭遇する。毒殺された豪商の李天峰、宝相寺で焼死体となって発見された15人の楽団員、首を締められ刺し殺された楽団長の羅什などなど。事件の背後には木巫女という謎の女性の影が見え隠れする。事件の捜査を進める狄仁傑は、数々の事件の背後に、甘州と朝廷を揺るがす陰謀が隠されていることを知る。
狄仁傑は実際の権力を持つ探偵であり、彼の捜査には障害というものがほとんどない。会おうと思えばどんな有力者にも会えるし、彼らを容疑者として扱うことも可能だし、尋問された相手は狄仁傑の威光にビビってしまって口を閉じ続けることが不可能になる。常に水戸黄門の印籠をかざしているような捜査は本当にお手軽で、煩雑な手続きを省いて一種のスピード感が出ているおかげで、殺人事件や集団失踪事件があっという間に国家の存亡がかかった事件にまで進展することができる。そして、舞台は古代とは言え、書き手は現代の人間だから、狄仁傑らが科学的捜査を軽んじることはないし、迷信の類を証拠として採用することもない。木巫女という神秘的な女性も、薬物・毒物の知識を持ち、占いを行って商売をする人間ではあるが、本作では狄仁傑と同等の知識や理性を持つ人間として物語の裏で活躍する。
しかし、唐とか宋とか古代王朝を舞台にしたミステリー小説には国家転覆や朝廷滅亡の危機がよく描かれるのはなぜだろう。異民族の驚異があった時代を舞台にし、朝廷の中枢近くで生きていた人間を主役に据える以上、侵略の心配を描かなければ逆に不自然ということだろうか。例えば、「清明上河図」という絵巻に描かれている800人以上の人物全てに名前とストーリーを与えて、大河ミステリー小説として完成されようとしている『清明上河図密碼(コード)』なんかは、舞台が北宋末期だから物語の端々から不穏な空気がにじみ出ている。ここに登場する大勢の人間が皆一様に「滅亡」の道を歩いているのだと理解できるのは、後世に生きる人間の特権的贅沢なんだろうか。
宋代を舞台にした『清明上河図密碼』や、唐代を舞台にした『大唐懸疑録』など、古代王朝を舞台にしたミステリー作品はだいたいシリーズ物で1冊が分厚くて読むのに根気を要する。それらに比べると本作はだいぶ気楽に読めるので、中国の歴史ミステリーの入門書に良いかもしれない。