僕はこっちの大学の中国人学生と相互学習をしているのですが、その彼女がとうとう来週に日本の大学へ留学に行きます。彼女は二年生ながらも、日本語で二三時間も日常会話ができるレベルなのであっちへ行っても交流の面で不便を感じることは少ないと思います。
最後の相互学習に、これまで時間を割いて僕の勉強に付き合ってくれた彼女にお礼と餞別を兼ねたプレゼントを持って行こうと考えたのですが、いかんせん僕はプレゼント選びってのが下手だ。それに、中国人相手に中国のものを贈るのはどうかと思うし、荷物になるようなものもあげられない。あまり高いものを送ったら向こうに迷惑がかかってしまう。
そのようにあれこれ思案して、結局何も持って行かないっていう優柔不断な性格が露わに出た結論になった。もうみんなからもらっているだろうし別にいいだろうと。しかし、最後の授業に出かける準備をしているときにやっと自分が贈るにふさわしいプレゼントを見つけました。僕の本棚には中国で買ったものの他に日本から持って来た本が数冊ある。本来ならもっと持って行きたかったのだが、詰められる荷物が限られていたため特に選別されたどれも僕好みの厳選された本。一緒に海を越えた本たちにはあとで母親から送ってもらった『ラヴクラフト全集』や『黒いユーモア選集』よりも恋しい思いがある。
その中で澁澤龍彦晩年の著『高丘親王航海記』は中国へ持って行くために買った本だ。
話の筋は、幼いころから天竺を憧憬していた高丘親王が六十代のときに従者を連れて唐を渡り、天竺を目指す旅の途中で出会う幻想的な事件に嬉々として巻き込まれるという西遊記のような構造。
親王の自分でもよくわからない天竺憧憬と厭世的な冒険感、そして旅先で出会う人語を解するジュゴンや犬頭人、女の体を持つ女面鳥身の生き物、本当に夢を食べる獏とそれを食べる少女などという図鑑には載っていない彼らが実は親王の夢の中だけの生物だったという事実。これらが、西洋に目を向け続け、博物学を愛好し晩年は病気とともに本著を執筆していた澁澤さんと親王をかぶらせる。
僕は勝手に薄弱な根拠のまま天竺へ行く親王と自分を既に日本で読み終えたこの本を持って行き、そして、もしも中国で死んだ時は『一年にも満たない留学だった。モダンな阿井にふさわしくプラスチックのように薄くて軽い骨だった』みたいな文で締め括ってほしいなぁとまで妄想していた。と言っても僕のモダンは『モダンホラー』のモダンなんですけどね。
自分の大切なものを贈る。これこそプレゼントじゃないだろうか。
確かに値段は安い。定価で380円の本をブックオフで250円で仕入れているから元で数えると15元ぐらいだ(シールは剥がした)。でも心あってのプレゼントだろう。僕の心を惹きつけたこの本には本当に僕の心が込められている。
しかし一つだけ危惧することがあった。それは、外国人が読むには難しいんじゃないかという以前に、女の子に澁澤龍彦の本を贈るのはどうだろうかということだ。改めて読み返してみると、少女が獏の男根を口に含むシーンとか犬頭人の股間に鈴が付いていたりと澁澤龍彦を知らない人には許容できないだろうポルノグラフィー。
やはり贈るのは別なものにしようか。
それに手放すのに未練があったのも事実。初版でもなんでもない、日本に帰ればまた買えるものだけど思い出があるのはこの本だけなんだ。
結局、僕は本をカバンに詰めて出て行った。
他人に本をあげるなんて自分の子供を売るに等しいけど、いいものは多くの人間に読まれるべきなんだ。これを機に本を腐らない物としてではなく、記憶や感情の供給源という食い物として捉えようと考え始めた。
そして、彼女が澁澤さんに興味を持ってくれて幻想趣味になることを期待するだけだ。