最近久々に徹夜で読書をした。
最近、と書いたが2ヶ月前のことを最近で括って良いものか。そもそも2ヶ月も前に読んだ本のレビューを今頃やること自体おかしいんじゃないのか。だが時間が取れないのだ。ボク個人の時間が少ないと言うだけではなく、その少ない時間の中でレビューを書いてやろうという気が起きるのが更に少ないのだ。
以前、本当にずっと前に、まだボクが留学生活をのびのび楽しんでいたときに、筒井康隆がライトノベルを書くという話を聞いて、親に頼んでファントムを送ってもらったことがあった。
その誌上で特集されていた郭敬明という若手上海人作家の作品が一部ではあるものの翻訳されて掲載されていた。
その翻訳者が泉京鹿氏だった。
氏はこれまで周国平のニュウニュウや余華の兄弟などのヒット作の翻訳を手がけており、おそらくこれが初めてのジュニア小説だったのだろう。
これを読んだとき、中国のジュニア小説ってこんな風に翻訳して良いのかと素直に感心した。
80後90後と呼ばれ(1980年代、90年代生まれという意味。日本でいうところの平成生まれとかゆとりってのと同義かな)、学校で問題を起こし、家庭では親と仲違いし、人間関係に疲れ、敵対心むき出しで孤独に戦う中国人の少年少女は日本人学生のそれと同じだった。
だけど彼らは周囲の大人の理解力を遙かに超えた新人類で、日本人よりも敏感で繊細で不器用なのだ。
泉京鹿氏が訳した郭敬明の小説『悲しみは逆流して河になる』にはそんな、日本人のボクから見たらおかしいぐらい歪な少年少女の姿が描かれていた。
とにかく違和感だらけだった。中国の学生が日本のマンガやドラマに描かれている部活動とか運動会などのイベントをリアルなのかフィクションなのかどうか考え込むように、ボクも彼らを見てためらった。
このズレが起こるのは、ボクが中国人じゃないからか、学生じゃないからか、それとも中国人も読んでいておかしいと思っているのか。
とにかく中国のジュニア小説はボクにとって単に侮れないだけではなく、理解できず、ともすれば面白くもない微妙なものだった。
さて、本題の『水の彼方』だ。訳者はもちろん泉京鹿氏。作者の田原(Tian Yuan)については敢えて言わない。ボクは彼女が作家であること以外、他の素顔を何も知らない。
自分のことも他人のことも客観的に見れるクセに、そのどちらに対しても思いやりに欠ける、言ってしまえば子供の頃に陥りやすい、何でもわかった気になってる女の子が普段の日常を生きる物語。ただし、彼女は他人より多くの物を見て、考えてしまうためしばしば現実世界から空想へと逃げる。
わかった風に書くといろんなところから苦情が来そうだし、ボク自身この小説を理解できてないので上手く説明できない。中国人の80後がこんな幻想的な小説を書けるのかとただ驚いて終わっても良いだろうし、手っ取り早く日本から綿矢りさや三並夏とか羽田圭介とか連れてきて比較するのも悪くはなさそうだ。
でもここはやはり田原だけで完結させたい。
本書がよくわからなくなっちゃうラストシーンにあるだろう。作中で主人公は現実世界と幻想世界を行ったり来たりする。だが一応棲み分けは出来ていて、幻想世界と触れ合えるのはそれを生み出した主人公一人だけだった。だからあくまで幻想世界は主人公が考え出した単なる幻覚で、これだけで終わるなら多感な少女が逃げ場所を自分の頭の中に求めたと一般論を語ることができます。しかしラストシーンで、主人公は彼氏と一緒に幻想世界に飛び立っていく。
じゃあ今まで主人公が生きていた現実世界はなんだったのか、ともすれば主人公に作者の田原を投影していた読者はこの結末から何を見て取ればいいのか。
そこの答えが出せない以上、この作品の解釈を述べても無駄なんじゃないかと思ったりする。
さて、主人公は頭の中で象魚(ピラルクーっていうデカイ淡水魚)と日常的に会話をし、いつの間にか別れてしまいます。それは村上春樹のネズミとかカラスという主人公の分身として描かれているという解釈も成り立ちそうですが、ボクは押井守的だなぁと思いました。象魚は結局、彼女の夢でもなければ現実でもなく、ただ意識下に下降していく虚構でしかないのです。多分。
うーん、2ヶ月経ったレビューはやはり精彩に欠けるなぁ。あと半分以上本題と関係ない記述だし。
せっかく徹夜して読んだのだからその日の内に書くのが正しいだろうに。
ただ、読後なんだか意味がわからなかったから、他の人のレビューを見てから書こうと計算してたのも事実。でも、誰もよくわかってないみたいだったのでこの計画は大失敗だった。