イリーガルなオタク情報は大抵ロシア人アンドリーからもたらされる。
この前はかなりの数の漫画が日本語並びに各種言語で読めるという、まるで漫画喫茶のようなサイトを紹介された。しかも有名漫画はその掲載雑誌が発行される前にアップされることがあるので、発行国の日本にいる読者より外国人の方が早く続きが知れるというわけです。
それで木・金曜日にワンピースとかフライングして読んだりしてるんですが、やっぱり読むんなら中国では絶対読めない漫画の続きが読みたい。マイナーな本は北京の漫画喫茶には置かれないんです。
ボクは3月に日本に一時帰国してから2ヶ月間、留学中のブランクを埋めようと購買していた単行本を読み漁り、もうそろそろ終わりそうな雰囲気の漫画を見つけました。
確かにもう長いことやったよな、と最終回を迎えるのを悔やみながら帰国中に結末が読みたいなぁと思っていた矢先に再び中国へ向かうことになったので、つい最近までその漫画が続いているのかどうかも忘れていました。
そしてアンドリーから教わったサイトでその漫画のタイトルを見つけてようやく思い出したわけです。
押切蓮介先生のホラーギャグ漫画『でろでろ』を。
思い入れのある漫画やアニメをこういう非合法な手段で見るのは気が引けるので、読む前に心の中で
最新話をクリックして読み進めると、案の定最終回でした。
『ぼくと姉とオバケたち』のような、押切先生らしい綺麗にまとまった最終回でした。
この漫画、日常に起こるちょっと不思議なことや変わったことを全部妖怪のせいにして主人公の耳雄が鉄拳でもってその怪奇現象を解決するという、霊能力とか一切関係ないホラーギャグ。
本屋で立ち読みしてるときにトイレ行きたくなるのも、話をしている最中空間が急に時間が止まったように無言になるのも、駐輪場で自分の自転車が見当たらなくなるのも全部妖怪のせい。あるあるネタを妖怪に置き換えたこの漫画、ボクは大学生のときに発見して以来ずっとファンだったんですが、ここ中国でまさかの最終回を目にすることになりました。
押切先生ありがとう、長い間お疲れ様でした。
と、心の底から感謝とねぎらいの言葉が出て来るのですが、まてよ・・・・・・
ボクにそんな権利があるのだろうか。
雑誌を買ったわけでもない、単行本も購入してない(ってか帰国したとき売っ払った)
そんな自分が『読者』を名乗って良いのだろうか。
外国人のオタクと接していると、果たしてコイツは『良い』オタクなのだろうかと区別することが良くあります。
理由は簡単。彼(または彼女)がその作品を正当な手段を用いずに知り得たからです。いくら熱狂的なファンを謳ったところで、彼(彼女)はネットで無料で漫画やアニメを観ている限り日陰者なわけです。
しかし外国人だから日本人よりずっとその作品に思い入れがあるって事もあります。そもそも外国ではものを購入しづらいし、正規版を買うとなると日本よりだいぶ遅くなっちゃいます。だからみんなネットの違法動画や漫画を見るのですが、何せ翻訳レベルが低いからたまに意味の通じない台詞になったりして楽しめません。
ボク自身、アンドリーから何度か日本語バージョンとロシア語バージョンの漫画を見比べさせられて「この台詞ってこういう意味だよね?この意味じゃないよね?」と相談を受けたことがあります。
そしてアンドリー、何をするかと思ったら友人とチャットをやりだし、「日本人がこう言ってんだからこの翻訳は間違ってんだよ」と、間違った翻訳台詞を信じている友人を糾弾し始めました。
外国人オタクにはいろんな苦労があるんです。好きな作品がマイナーなモノだったらそれは尚更で、作品に対するのめり込みようは日本人より深いでしょう。
もし『でろでろ』の外国人読者がいたら、ボクは絶対に会いたいです。あの日常を妖怪化するという設定が外国人に理解できるのか興味ありますから。しかしその読者の『好き』という感情は作者になにも還元されていません。
それは中国にいるボクも同じなんですよね。ボクは今、押切先生に対し何も出来ないわけですから。それで外国人オタクもボクもなんだか気まずさを感じながら大好きな作品を見るわけです。
そういう人たちが作者に対してお礼を言える身分にあるのか。
ちょっと思ってしまいました。