・極めて現実的な文章
山田悠介の文章は良く言えば荒削りです。それは初期に指摘されていた誤字や文法の間違い云々ではなく、純粋に無駄な書き込みが多いと言うことです。
一般小説ではあきらかに不必要な文、例えばウエイトレスの言う「いらっしゃいませ」だとか、本筋の事件とは全く関係のない新聞記事だとか、人物描写にもなっていない会話文だとか枚挙に暇がありません。しかしこの無駄こそが山田本の魅力と言えるかもしれません。
多くの山田本は現実中の非現実な出来事がテーマに書かれています。そのような物語でどうやったら日常性を出せるのかと考えたとき、我々が過ごす一日はあまりにも無駄なことが多いことに気付きます。言動や出来事だけではなく、見るもの聞くものに至るまで全てに意味があるわけでは決してありません。
しかし一般的な小説は無駄をできる限り削ぎ落とし、人物描写や伏線張りの描写に骨を折っているのです。
だが山田本の立場から見ると、それらはあまりにも完成されすぎていて逆に非現実的であります。現実は不必要な情報で溢れているのです。山田はその、普通は捨てられてしまう言動を敢えて拾って文章にすることで、我々が住む世界に似た雰囲気を出しています。
会話文もまたしかりで、我々は日常小難しい言葉など口にはしないし、洒落たことも言いませんし、一人で延々と喋り続けるようなことはしません。山田本の登場人物たちも同様そんなことはしません。
とりわけ山田の痛々しいまでの現実主義が出ているのは小説後半のなんともあっけない展開です。どの小説のラストもみな読者の予想と期待を裏切る結果を見せます。ですがここに氏の若すぎる、悪く言えば幼稚な現実主義があるのです。
氏の作品に『×ゲーム』という、望月峯太郎の『座敷女』を想起させる小説があります。内容は、幼い頃に虐めていた女が復讐しに来るというものなのですが、その中で女がイジメの憂さ晴らし自分の妹を虐めていたという負の連鎖が記述されています。
さて、物語の終盤に差し掛かると主人公の前に遂に問題の女が現われるのですが、ここで一般的には『実はその女こそが妹で、姉から八つ当たりを受けていた原因である主人公たちに復讐しに来た』というどんでん返しを期待しますが、山田はそれを裏切ります。
何故かというと、そんな面白いことは小説の中でも起こらないからです。
そして山田が作中で伏線を張ろうとしないのは、現実にそんな偶然の一致なんかが起こるわけがないからです。氏はとことんドラマツルギーを否定します。
フィクションを書いていながらも徹底した現実主義を貫く山田悠介には本当に感心いたします。
・なぜ山田本が売れるのか
出版不況と言われる現代にベストセラーを何冊も叩き出した山田がなぜ正当な評価を受けていないのか、それを端的に表している文章が文庫本『親指さがし』の解説にあります。
「因果律」を欠いた小説の世界って、すっごい浅い。紙に書いた「西暦3000年」みたいな。でも、それって、どこか切実な“浅さ”なんだ。そこに“深さ”をぶつけてみないと、“浅さ”の本当の切実さはわかんないよ、
コラムニスト中森明夫が寄せたこの一文にこそ、山田が文芸評論の口の端にも上らない理由があります。
山田の小説は評論に絶えられない薄さしか持ち合わせていません。氏の小説の特徴全てが評論に不向きなのです。
だが小説は評論が全てではありません。文壇からいくら評価されても、売れないものはM-1優勝したはずのNON STYLEぐらい売れないんです。そもそも小説を楽しむに当たり、綿密な伏線設定やボリュームに富む人物描写などが必要なのでしょうか。山田本に限って言えば全くいりません。
だからこそ映像化・コミック化など目に見える媒体に姿を変えることが容易なのでしょう。山田本の一番の魅力はなんと言っても、まるでカメラのレンズが通っているかのように登場人物が何かをしている様子をとにかく見せ続けるところであり、まさに映像化にふさわしい作品なのです。
普段は本を読まない多数の若者が山田の本を手に取り、「面白い」「最高だ」「山田以外の本なんて読めない」などの賛辞を送るのは、山田本が『小説』という言葉が持つやや堅苦しいイメージから脱却した、非常に突飛なアイディアと平易な文章を持っているからだと思われます。そして、メディアミックスしやすい山田本は出版社に珍重され、それらを見た人々が原作に目を通すというサイクルは既に完成しています。
山田本は本来なら世に出るはずがなかった小説です。しかし、これまでなかったものは必ずその分野に無関心だった人を振り向かせます。まるで吹けば飛ぶような軽さの小説は、小説を読まない若者層に受け、彼らを「自分は小説を読んでいるんだ」という今まで味わったことがない気分にさせてくれました。つまり既存の小説業界から取り残されていた層に救いの手を差し伸べたのが他でもない、山田悠介なのです。
小説を読まない人間がいるからこそ、山田本が読まれる。山田悠介が若年層に受ける理由はこれに尽きると思います。また昨今の小説は先人を超えようと文章の流れや言葉のリズムに神経を使い、人物描写に筆力を込めて、マイナーな題材を取り上げて微に入り細に穿つ知識に裏打ちされた設定を打ち立てるということをしますが、小説を読まない人からすればそんなもの読みにくいだけだし、他との違いを見せようとする余りどれもこれも似たようなものに見えてしまいます。
だからこそ原石のような山田本は多くの人々に持ち上げられ、磨かれて漫画や映画に姿を変えるのです。
山田悠介の登場、それは行き過ぎてしまった小説業界に起きた先祖返りなのかもしれません。