本屋に寄るのも良いが、毎日通い詰めてしまうと興味のある本にはほとんど目を通してしまい読むものはなくなる。新規開拓のためエッセイ漫画コーナーに立ち寄ることにした。
エッセイ漫画と言えば実録育児ものが王道で今でも人気を博すジャンルだが、他には夫婦もの、最近では親子ものもテーマに選ばれる。また現在の世情を反映してか家族の鬱病と言った現代人が視野に入れながらも実際には向き合いたくない重いテーマも俎上に上げられる。
そんなコーナーの一角で懐かしい絵柄が目に留まった。あの育児漫画の金字塔ママはぽよぽよざうるすがお好きの作者がそれの続刊とも言うべき本を出していた。
前作ママぽよではまだまだ小さい子供だった息子と娘が、最新作かわいいころを過ぎたらでは成長した姿で見られます。前作の読者ならあの子供たちがこういう風に成長して今では自分の意志で進路を選ぶようになったのかと親のように感慨深げにページをめくるのでしょう。
しかし彼らに向けて一方的に視線を送る観察者になれない読者には作者と同じ気持ちに耽ることはできないだろう。
エッセイ漫画、とりわけ育児もののそれは他者のアルバムやビデオフィルムを見るのに似ている。不特定多数の人間に見せるために客観視して面白いと思える部分をズームにするような編集が施されているからまだ見られる。だが被写体は素直に笑うことはできないだろう。
しかし育児ものエッセイ漫画の大事なところは、その漫画が描かれ出版された時点では子供はまだ漫画に出演していると思っていない点だ。早熟な子は出演を拒否したらり、気まぐれに自ら漫画化されようと故意に子供らしいことをして、わざと幼稚ぶるのが本当は一番子供らしいことに気付かないまま意図に反して漫画化される。
そして親の仕事を理解するぐらいまで成長した子供たちは自分が出ている漫画をアルバムをめくるように読み進めるだろう。どのような表情を浮かべているかわからないがきっと怒りはしない。
だが成長した『現在』を描かれる子供は10代20代の人間なのだから、自分の意見が持てず親の裁量で全てが決められていた昔とは違い親に口出しするし、描き手である親の方も子供に遠慮して筆を弱めるだろう。
そのような舞台裏を勝手に想像すると、対象が赤ん坊だった頃の漫画にはなかった嘘くささを感じずにはいられない。
エピソードのひとつに息子の部屋でエロ本を発見する回がある。息子を持つ母親ならば一度は経験するハプニングである。(関係ないけど息子の部屋って洋画、名前だけ聞いて死んだ息子の部屋からとんでもないものばかり出て来て遺族の家庭がギスギスする内容だと思ってた)だが、漫画に描かれる子供がもう自我を持った一個人であることを考えるとつい邪推をしてしまう。見つけたエロ本は果たして全て普通の健全なエロ本だったのか。
実母ものとか偏った嗜好の本はなかったのか。もしあったらそっちの方こそ母親同士よく相談するべきであり漫画に描くべきネタではないのか。と想像を膨らませてしまう。
いい年をした大人がいい年した実の子供をネタに漫画を描くという行為は親ばかを超えた薄ら寒さを覚える。もしコレが漫画ではなくビデオだったらいくら編集されていても引く。
このエッセイ漫画は受け手によりだいぶ評価が異なるだろう。ママぽよを昔から知っている母親なら懐かしさに口元を緩めるだろうが、ママぽよの子供と見比べられていた当時の子供たちが読めば苦笑いが浮かぶ。
だが文字通り親子ほどの違いのある読者がそれぞれ違う受け取り方をするのが家族もののエッセイ漫画なのだろう。
エッセイ漫画には解決法なんて載っていないし、作者側も意図してそれを描かない。同じ境遇にある読者を共感させたり、こうすればいいのか、ではなくこうでもいいんだと安心させるのが役目だ。高い共感力を持っているからエロ本を発見するエピソードは読者によっては『発見される息子側』の立場に立たせる強さがある。
そしてエッセイ漫画コーナーで偶然見つけた親が鬱になっちゃった本を読んで他人事ではない恐怖と仲間がいることへの奇妙な安堵感を抱くのである。