エラリィ・クイーン好きで、これまで本格ミステリーを書いてきた著者が初めて挑戦した社会派ミステリーと聞いて期待していたのだが、かなり当てが外れた。新聞記事から切り抜いた「社会問題」を手当たり次第ぶちこんで、「社会派でござい」と公言するのは不誠実だろう。ちなみにタイトルの梟獍とは、恩知らずの悪人を意味し、梟は母親を食い殺す悪鳥、獍は父親を食い殺す悪獣を指す。
将棋仲間の徐述聖、銭志国、戴興華は老境に差し掛かり、ともに人生に絶望していた。徐述聖はガンで、銭志国は老いらくの恋に破れ、戴興華は賭博による借金が原因で自殺を考えていた。しかし老人ホームの看護師がニートの息子からひどい家庭内暴力を受けていると知り、どうせなら人助けしてから死のうと考え、その穀潰しを殺す。だが犯行現場が何者かに盗撮されていて、謎の人物から脅迫を受けた3人は、次に老人ホームの施設長を殺せと命令される。他に選択肢がない3人は施設長室に向かうが、施設長はすでに殺されていた。そして犯罪に関してはずぶの素人の3人は警察の捜査によって着実に追い詰められていく。
タイトルもテーマも、3人のジジイというキャラクターも素晴らしいのに、どれもこれも浅堀りで終わってしまったもったいない作品。身寄りのない高齢者、家庭内暴力、ニート、子育てなどなど、親子関係に焦点を当てた一冊だが、どの問題も出すだけ出して終われば先に進むだけで、読書中は中国のこれらの社会問題を深く考えることも、当事者に思いを馳せることもなかった。しかしこのテンポの良さは本作の長所かもしれず、殺人という行為に3人のじいさんがためらう描写を省き、即座に殺人を決行、その場でアリバイをつくるといった場当たり感に、著者の出自はやはり本格ミステリーなのだと感じた。ニートの息子は悪人だけど施設長は善人だからと、3人が殺しをためらう様子からは、ネットのシンプルな善悪論が見て取れ、こいつら本当に老人か?と思ってしまった。
どうせなら余命幾ばくもない恐れ知らずの老人たちがちっぽけな悪を私刑に処していくっていうコメディ路線を突き進んでほしかったが、それは難しいか。
そんなジジイ3人を追うのは警察官の喬俊烈。彼も家庭に問題を抱えていて、自分と母親を顧みなかった父親を死ぬほど恨んでいるのだが、実はそれには理由があって……と、ここでもやはりテンポの良さが出て、喬俊烈の父親への恨み描写→誰かが理由を説明→雪解けというように、感動へ至るまでの溜めがほぼゼロだからとにかくどのエピソードも薄っぺらく感じてしまう。
そう、結局のところ著者の書きたいことが多すぎて、この約250ページの作品では収まりきれず、どの小さなエピソードも展開が性急になってしまっているのだ。最後の推理パートでは、これまでストーリーとは無関係だった女性のヒストリーにページが割かれ、女性の貧困問題とかキャバクラ依存みたいなことまで書こうとする。著者がどうしてテーマをこれでもかと詰め込んでしまったのか理解できない。編集者とか手綱を握ってくれる人がいなかったんだろうか。
さてここからネタバレというかツッコミ。
遣唐使の口癖のせいでツイッターでバズってしまった作品。ただ読み通しても遣唐使は驚くばかりでろくな活躍が与えられていなかった。
則天武后の時代、宮中で「猫鬼」騒動が発生する。猫の妖怪の大群が銀十万両を積んだ車を奪い去り、猫鬼を飼育していたと噂される男が動物に襲われたかのような惨殺死体で見つかる。さらに宮中の壁には、則天武后に惨たらしく殺された蕭淑妃が遺したとされる「貴様が鼠なら私は猫になる」という呪いの言葉が浮かび上がる。呪いこそ信じていないものの、何者かが則天武后の命を狙っていると考えた御史の張鷟は狄仁傑の孫の狄千里、遣唐使の粟田真人らとともに妖怪退治に挑むが、怪異の裏には恐るべき権力闘争があった。
則天武后の在位中なので、正確には唐ではなく武周の時代だ。だから粟野真人も「遣唐使……いや、遣周使の粟野真人です」と自己紹介している。則天武后がトップにいることも事件が起きた原因なので、「唐」とひとくくりにするのはちょっとためらわれるが、面倒なのでここでは唐と統一したい。
中国妖怪研究家である著者の張雲によると、「猫鬼」、つまり猫の妖怪は中国の法典に唯一記載された妖怪であり、『唐律疎議』には「猫鬼を飼育したりこれを操った者は絞首刑に処す」とあるそうだ。そんなものの実在が信じられていた時代、探偵役の張鷟の役どころは謎の解明以前に、この怪異は人為的なものだと証明すること。しかも依頼主はあの則天武后なのだから、プレッシャーが半端じゃない。
しかも悪いことに、猫鬼事件が残した数々の証拠が、則天武后の実の息子で、即位後わずか数ヶ月で退位させられた李顕を指しているものだから、老境に入って曖昧な状態の則天武后が、息子がクーデターを目論んでいるという妄想に囚われるのも仕方のないこと。だから張鷟は、李顕が処刑される前に彼の無実を証明しないといけなくもなり、とんでもない高所での板挟みにさいなまれる。探偵が依頼人に平身低頭しながら容疑者の無罪を主張するのは封建社会でしか見られない光景だろう。
魑魅魍魎が信じられていた頃の風習、まだ太平の世とは言いがたい国内環境、さまざまな人種が入り乱れる最先端都市長安といった当時の中国ならではの謎と推理が楽しめる一冊。特に、歴史の裏付けがあるから許されているのだろうが、特定の人種を犯罪者(しかもクーデター首謀者)として扱うのは、今の中国の出版業界では絶対NGだろうから、まさにこれは時代ミステリーならではの役得だ。
またこの作品では、則天武后◯◯説が提唱されていて、まぁ100パーセント作者の想像に基づくフィクションなのだろうが、あの残虐苛烈な女帝の晩年をいっそう哀れなものとして、彼女を人間らしく描こうとした著者の優しさが垣間見られる。
ところでこの本、序盤では特に著者の妖怪への考え方があけすけに書かれている。猫鬼の群れを見た粟野真人が「我が国ではこれを百鬼夜行と言います」と説明した際、張鷟はそれを一笑に付し、「いやいや粟野くん、いわゆる百鬼夜行とは中国が起源なのだよ」とテコンダー朴構文をかます。
この張鷟の言葉こそ、著者が言いたいことではなかったのか。実は著者は以前、どこかのインタビューで、「妖怪」はもともと中国のものだったのに今ではすっかり日本の文化として世界に広まっていることを歯がゆく思う気持ちを吐露していた。つまりこの言葉は、外国人の間違いを指摘しているように見え、中国の文化や歴史を十分に知らない自国民への批判だったのではないか。
著者は本書を通じて、中国の妖怪文化をもっと世に広めたかったのだろうが、だったら本書を妖怪ミステリー小説ぐらいに留めてほしかった。なにせ唐を舞台にして則天武后や李顕ら実在の人物が次々に出てくるのだから、歴史小説的な側面が出てくるのは避けられない。だから本書は正確に言うと、妖怪歴史ミステリー小説だ。疲れるから、次回作は歴史成分薄くしてほしい。
著者の趙婧怡は翻訳者としての顔も持っており、青崎有吾の『ノッキンオン・ロックドドア2』や阿津川辰海の『紅蓮館の殺人』などを翻訳している。またSFミステリー短編集『扮演者遊戯』を出している。
長編小説である本作は、本格ミステリーと社会派の融合という煽り文句が帯に書かれているが、社会派成分はそこまで感じなかった。あと、なんというか、本書を読んだあとに自分で書いた『扮演者遊戯』のレビューを読んで改めて思ったのだが、この作者、◯◯トリックが好きなんだなと思った(この感想自体が本作のネタバレになってしまうので伏せ字)。
東陽市郊外のガラクタ置き場で王治国という名の男の死体が見つかる。郊外とは言え、死体が無造作に捨ててあった事実に、事件捜査を担当する刑事の周宇は嫌な予感を覚える。案の定、死体の発見現場を調査すると、その下から十数年前に行方不明になっていた宋遠成とその娘・宋小春の白骨死体が出てきた。なぜ犯人は王治国を殺したあと、父娘の白骨死体が眠る場所にわざわざ捨てたのか。三人の死者にはどういう関係があるのか。周宇は新人刑事の方紋とともにこの難事件の捜査に当たる。
一方、大学生の秦思明は奇妙な荷物を受け取った。それは十数年前に東陽市で起きた女児誘拐事件に関する新聞の切り抜きだった。なぜそんな事件の記事が自分のところに?という疑問以上に、秦思明には不可解な点があった。家が裕福な彼は、大学寮ではなくマンションを借りて一人暮らししており、その住所を知る人間は母親の馬雪瑩以外いないはずだった。不安になった彼は、程よい距離感の友人・肖磊に相談する。しかし何者かからの荷物は次々と届き、その中には赤ん坊を抱く若い頃の馬雪塋の写真があった。だがそこに写っている赤ん坊は、秦思明ではなかった。彼は徐々に自分の出生、そして母親の秘密に迫っていく。
中盤まで差し掛かっても、周宇のAパートと秦思明のBパートがどう交わるのか予想のつかない展開。死んだ王治国は昔、宋遠成の娘・宋小春を誘拐した疑いがあり、最近では馬雪塋を脅迫していたので、過去と現在を結ぶ重要人物である。ではその彼を殺したのは誰か?
Aパートでは宋遠成の義理の娘・宋迎秋の証言によって、Bパートでは秦思明の友人・肖磊の協力によって、どうやら馬雪塋が王治国殺害と宋小春の誘拐には関与していそうなことが分かる。しかし怪しいところ満載の馬雪塋にはGPSアプリの行動履歴による鉄壁のアリバイがあり、それを崩すには不可能に見えた。
しかしそもそもどうして馬雪塋にこれほど疑いの目が向けられたのかと言うと、情報提供者の宋迎秋と捜査協力者の肖磊の働きが大きい。宋迎秋が周宇たちに当時の事実を話すのは、義父の敵討ちのためなのか。肖磊が秦思明を支えるのは、友達だからか。物語はこの「二人」の真意が分かってから加速度的に面白くなっていく。
事件の発端となった誘拐事件は、犯人が知力を尽くして実行に移したというのでは全くなく、他人の身勝手さと偶然が重なった極めて不幸な事故とも言え、そんな不幸なバトンリレーあるのか?と興醒めしてしまったが、だからこそ回りくどい復讐を選んだのだろう。
第7回金車・島田荘司推理小説賞の優秀賞に選ばれた作品。入選作ではなく優秀作なので、外国語に翻訳される予定はなさそう。
子どもの書いた不思議な手記が、どういうわけか館殺人と結び付き、さらには中国で過去に起きた巨大な出来事の関与も明らかになって、いったいそれぞれがどう融合するんだ?!とハラハラワクワクさせられる作品だった。
物語は、阿海という名前の少年の残した手記から始まる。友達の家から盗んでしまった積み木(というかレゴブロック)で遊んでいた彼は、気付けば見知らぬ部屋にいて、ベッドに寝かされていた。そばにいるレゴ人形みたいな男に話し掛けても、全然言葉が通じない。そして部屋の外から轟音が聞こえ、ブロックも部屋も崩れ、辺りは真っ暗になってしまった……
という内容が書かれた手記が張志傑の家から見つかる。しかし張志傑一家は、十年以上前のものと思われるその手記に誰も心当たりがなく、手記の執筆者・阿海を含め、そこに登場する人物についてまったく知らなかった。張志傑の友人で、推理小説家としてデビューした白越隙(作者・白月系と同じ発音)は、自称探偵の謬爾徳と共に、その手記の執筆者の正体、その内容の真偽について調査する。その結果、その手記は張志傑のおじで自称建築家の趙遠文の遺品らしいということがわかったが、彼は数年前に謎の自殺を遂げていた。
一方、大学の詩サークル「海谷詩」に所属する「私」こと余馥生は、メンバーとともに七星館という屋敷で合宿中に連続殺人事件に遭遇する。そこは前所有者の趙書同が諸葛亮孔明の「七星灯」をイメージして建てた別荘で、各建物には孔明とゆかりのある展示品が飾られているのだが、それを使って孔明の伝説を再現したとした思えない事件が起きるのだった。
あらすじが長くなってしまったけど、物語の発端である手記と、それを調査する白越隙たちのことと、七星館の殺人に触れないことには本作は語れない。ただ、この程度だと三者の関連性がよく分からないだろう。しかし分かるまで書いてしまったら完全なネタバレになってしまうので、これ以上深掘りするのはやめておく。
そしてこの本、謎が作中でリストアップされ、復習として何度も出てくるのは、自分みたいな忘れっぽい読者にはかなりありがたかった。
白越隙と余馥生の視点で進む本作は時間軸の隠し方が露骨だ。
手記が十数年前に書かれたことはともかく、白越隙たちの捜査と七星館での殺人事件は同時並行しているのかという点について、著者はかなり多くのヒントを出している。白越隙たちのパートは、「健康コード」のせいで行動が制限されるとか、どこへ行くにもマスクが必須とか、現在(本書執筆時の2021年末)の中国の新型コロナ事情をこれ見よがしに記している。それに対し、七星館の方は話の舞台を不明瞭にしていて、なんとなく過去の話だと読んでいて感じる。要するに、にぶい読者であっても、二つのパートは並列していないと分かる構成になっている。
七星館で見られる人間の死に様はかなり強烈で、作中もイラストで説明されるのだが、これだけ見ると笑ってしまいかねない。ぜひ映像化してほしい死に方で、正直、文章として読むだけでも十分、自分の目と作者の頭を疑うぐらいインパクトがある。ガンギマっているとしか思えない子どもの手記の内容は、レゴブロックで再現するべきだ。
しかし、七星館の場所、そして時代が分かってからの展開は圧巻で、推理小説だというのに死者に対して弔意を示したくなる。
本作は中国のレビューサイトで「島田流」(島田荘司らしい作品)とたたえられ、その奇想天外な「謎」(トリックではなく、あえて謎と言う)の回収方法が、やや牽強付会と言われながらも評価されている。どうやったのか、なぜやったのかわからない謎の数々が、ある一つの大きな事実を示されるだけで、一気にそして強引に解き明かされるのだ。
十数年前に中国で起き、中国人全員の心に深く刻み込んだ大きな出来事を、謎を構築するオチとして扱い、人間の死を冷徹に描き、死体の尊厳を気軽に踏みにじる本格ミステリーの世界に登場させた著者の判断には敬服する。
過去に起きた事件を現代で振り返る内容だから、その出来事こそ物語の発端なのだが、順序を引っくり返してオチに持ってきているから、読書中に不謹慎さや気まずさを覚えることはなかった。本書は新型コロナを一つの区切りとし、過去十数年間で中国で話題になった数々の社会問題を、一つの事件を構成する要素として取り入れており、中国の「いま」を切り取ったミステリー小説として今後何度も取り上げられるようになるだろう。
だからこそ、エピローグがまったくの蛇足だと感じた。しかしその感想は結局、自分が外国人だという証明かもしれない。
第7回金車・島田荘司推理小説賞の受賞作はマレーシアの作家・王元の『喪鐘為你而鳴』で、簡体字版はまだ出ていないし、読んでいない。しかし、本当に本作を上回る内容なのか?と不安に思ってしまう。それぐらい、優秀賞の『積木花園』は良かった。
『13・67』や『網内人』の陳浩基によるSFミステリー小説短編集の簡体字版(2021年出版)。オリジナルの繁体字版は2020年に出ている。
主人公はジョジョのスタンドとデスノートが合わさったような能力を持つ殺し屋・気球人(バルーンマン)。彼は相手の体に触れるだけで、その体の内部をまるでバルーンアートのように捻ったり膨らませたり爆発させたりすることが可能、しかもその部位や発動する時間まで細かく指定することができる。本書は、そういった超能力者が好き放題やったり、他の能力者とバトルするような作品ではなく、その能力のせいで窮地に陥ったり、トラブルに巻き込まれたりする、犯人による一人称視点の倒叙ものだ。
表題作の第0話「気球人」は2011年作。そこから発表年月とともに作品内の時間も進んでいく。この辺りは『13・67』で2013年から1967年までの香港の変遷を逆再生させた構成を思い起こさせた。陳浩基は作品の中で登場人物の年齢と思想を変えるのが好きなんだろうか。
「気球人」では、ひょんなことから自らの能力に気付いた主人公が、自分の過去も顔も全部捨てて殺し屋として生きる序章が書かれる。そして、銀行の支店長を派手に爆死させろというリクエストを受けた主人公は、銀行内で簡単にターゲットに接触、「50分後に爆発する」という指令を与えて帰ろうとした。しかしそこに偶然銀行強盗が乱入し、その支店長が彼のそばで射殺されてしまう。このまま立て籠もりが続けば、爆発に巻き込まれてしまうことに。そう考えた彼は自分で銀行強盗と戦うことを決意する。
これで終わってしまうと、超能力を使った単なる脱出劇で、「学校にテロリストがやって来る」中二病の妄想と変わらない。本作ではさらに銀行強盗の正体に一手間加えている。
第3話の「傅科擺」では、フリーの殺し屋である主人公に裏社会を牛耳る秘密結社「洛氏家族」から次々と意味不明な殺人依頼が届く。対象は教師とかタクシー運転手とか裏社会とは無関係な人間ばかりで、依頼も有無を言わせぬ一方的なものだから気球人はだんだん嫌気が差してくる。
第6話の「謀情害命」では、普段以上に軽薄で慎重さを欠いた気球人が出てくる。金持ちの男の後妻から、継子の少女を殺すよう頼まれた気球人。その報酬に、その女性と寝ることを提示する。女は嫌がるが、継子を殺せるならとしぶしぶ了承する。
気球人が世間を騒がせてから数十年後の世界を描いた第7話の「最後派対」もそうだが、気球人がそそっかしかったり、子どもに危害を加えようとしていたり、肉欲や物欲に目がくらむなどといった「いつもの気球人ではない」と読者に思わせることがすでにギミックになっている。
・法に縛られない殺し屋の存在意義
特定のポリシーを持たず、依頼を受ければ実行し、人を風船に変えて音もなく死なせることも派手に爆発させることも可能な気球人に、何らかの寓意を読み取ってみたくなる。気球人は殺人をためらわない掛け値なしの悪人で利己的な人物だが、金銭欲や自己顕示欲はさほどでもないために、一般人の間には「気球人という殺し屋がいる」という都市伝説レベルの存在で留まっている。これが『デスノート』のライトみたいな思想を持っていれば、人々から恐れられる「超人」の誕生だが、彼自身に思想の偏りがないことが自己の肥大化を防いでいる。
そもそも本書の中で気球人はあまり読者からの好感を持たれない描かれ方をしている。無関係な一般人に手を出さないという制約は彼の都合だし、能力の調整のために小動物を犠牲にする。その気になればいつでも誰でも殺せるという、透明な抜身の刀を常に持っているような危ない人間だ。このような現行法に縛られない殺し屋にもカタギからニーズがあるのは、むしろこの程度の人間が気球人になったのはまだマシかと思わせられる。
「人と接触しなければならない」という制約によって、彼が気球人として振る舞えるのはその手が届く範囲でのみになっている。もちろん、能力の使いようによっては「傅科擺」でのように一度で多数を始末することも十分可能だが、何でも自由にやると痛い目を見るのは第0話「気球人」ですでに明らかだ。結局のところ、一般人が超能力を授かったところで、過度な野望に巻き込まれなければ小市民的な生活は変わらないのだろう。