『13・67』や『網内人』の陳浩基によるSFミステリー小説短編集の簡体字版(2021年出版)。オリジナルの繁体字版は2020年に出ている。
主人公はジョジョのスタンドとデスノートが合わさったような能力を持つ殺し屋・気球人(バルーンマン)。彼は相手の体に触れるだけで、その体の内部をまるでバルーンアートのように捻ったり膨らませたり爆発させたりすることが可能、しかもその部位や発動する時間まで細かく指定することができる。本書は、そういった超能力者が好き放題やったり、他の能力者とバトルするような作品ではなく、その能力のせいで窮地に陥ったり、トラブルに巻き込まれたりする、犯人による一人称視点の倒叙ものだ。
表題作の第0話「気球人」は2011年作。そこから発表年月とともに作品内の時間も進んでいく。この辺りは『13・67』で2013年から1967年までの香港の変遷を逆再生させた構成を思い起こさせた。陳浩基は作品の中で登場人物の年齢と思想を変えるのが好きなんだろうか。
「気球人」では、ひょんなことから自らの能力に気付いた主人公が、自分の過去も顔も全部捨てて殺し屋として生きる序章が書かれる。そして、銀行の支店長を派手に爆死させろというリクエストを受けた主人公は、銀行内で簡単にターゲットに接触、「50分後に爆発する」という指令を与えて帰ろうとした。しかしそこに偶然銀行強盗が乱入し、その支店長が彼のそばで射殺されてしまう。このまま立て籠もりが続けば、爆発に巻き込まれてしまうことに。そう考えた彼は自分で銀行強盗と戦うことを決意する。
これで終わってしまうと、超能力を使った単なる脱出劇で、「学校にテロリストがやって来る」中二病の妄想と変わらない。本作ではさらに銀行強盗の正体に一手間加えている。
第3話の「傅科擺」では、フリーの殺し屋である主人公に裏社会を牛耳る秘密結社「洛氏家族」から次々と意味不明な殺人依頼が届く。対象は教師とかタクシー運転手とか裏社会とは無関係な人間ばかりで、依頼も有無を言わせぬ一方的なものだから気球人はだんだん嫌気が差してくる。
第6話の「謀情害命」では、普段以上に軽薄で慎重さを欠いた気球人が出てくる。金持ちの男の後妻から、継子の少女を殺すよう頼まれた気球人。その報酬に、その女性と寝ることを提示する。女は嫌がるが、継子を殺せるならとしぶしぶ了承する。
気球人が世間を騒がせてから数十年後の世界を描いた第7話の「最後派対」もそうだが、気球人がそそっかしかったり、子どもに危害を加えようとしていたり、肉欲や物欲に目がくらむなどといった「いつもの気球人ではない」と読者に思わせることがすでにギミックになっている。
・法に縛られない殺し屋の存在意義
特定のポリシーを持たず、依頼を受ければ実行し、人を風船に変えて音もなく死なせることも派手に爆発させることも可能な気球人に、何らかの寓意を読み取ってみたくなる。気球人は殺人をためらわない掛け値なしの悪人で利己的な人物だが、金銭欲や自己顕示欲はさほどでもないために、一般人の間には「気球人という殺し屋がいる」という都市伝説レベルの存在で留まっている。これが『デスノート』のライトみたいな思想を持っていれば、人々から恐れられる「超人」の誕生だが、彼自身に思想の偏りがないことが自己の肥大化を防いでいる。
そもそも本書の中で気球人はあまり読者からの好感を持たれない描かれ方をしている。無関係な一般人に手を出さないという制約は彼の都合だし、能力の調整のために小動物を犠牲にする。その気になればいつでも誰でも殺せるという、透明な抜身の刀を常に持っているような危ない人間だ。このような現行法に縛られない殺し屋にもカタギからニーズがあるのは、むしろこの程度の人間が気球人になったのはまだマシかと思わせられる。
「人と接触しなければならない」という制約によって、彼が気球人として振る舞えるのはその手が届く範囲でのみになっている。もちろん、能力の使いようによっては「傅科擺」でのように一度で多数を始末することも十分可能だが、何でも自由にやると痛い目を見るのは第0話「気球人」ですでに明らかだ。結局のところ、一般人が超能力を授かったところで、過度な野望に巻き込まれなければ小市民的な生活は変わらないのだろう。