前作『溝鼠』を書いたおかげで親戚と友人が減ったという新堂冬樹先生が懲りずに出した続編。『毒蟲VS溝鼠』と銘打ってありますが別に東宝映画とは関係ありません。
俺だけが知っている密やかな悦び、それが味わえるブラックな小説だ。
アイアムチョーノ(帯文から引用)
『毒蟲』の通称を持つ大黒は猛毒のサソリやタランチュラを使役し、非合法の別れさせ屋に就いていた。ターゲットがどんな善人だろうと依頼を受けたからには過度な暴力を使って仕事を遂行する。ミスは一度もなかった。
しかしそれでいい顔をしないのが前作の主人公だった『溝鼠』こと鷹場。復讐代行業をしていた鷹場はとある理由から海外に身を隠し、日本へ戻ってきたときには顔と戸籍を代えて新たな復讐代行業に就いていた。そして業界ではタブーの『依頼人殺し』をされた鷹場はこれを機に大黒を殺そうと企む。だが大黒にはそれ以上に鷹場への怨恨があった。両者仲間を巻き込み溝鼠と毒蟲の戦いが始まる。
本書の魅力はなんと言っても暴力シーン。それも生温い描写じゃありません。言っておきますが、殴る蹴るなんてむしろそれぐらいで済んだことを神様に感謝するべきレベルです。(だけどこの小説に出て来た信心深く聖女のようだったお婆さんは穴という穴にカラシを塗り込まれ蹴り殺されてしまいますけど)強姦や殺人未遂などページをめくれば彼処に見当たりますし、拷問に手をかければ女性ホルモン注射やシリコン注入などの肉体改造といった肉体・精神双方に苦痛を味あわせます。
登場人物は一人として感情移入できないほどの鬼畜どもばかり、吐き気を及ぼす残虐描写の連続、なのに本書が閉じられないのは決して読み手がサディスト(もしくはマゾヒスト)だからではありません。
この本は読みやすいのです。まさに地獄の責め苦と形容できるほどの暴力を目の当たりにしてもです。
前作『溝鼠』だけじゃなく新堂さんの小説にたまにあることなんですが、描写が酷すぎるあまり一回転して面白くなっちゃうと言う逆転現象が起こるんです。
例えば前作で鷹場がフィギュアオタクに拷問をかけるシーン(記憶を頼りに)
腐ってもうウジ虫が涌いているメロンを片手に鷹場はオタクに、これ以上フィギュアをぶっ壊されたくなかったらこれ喰えやと迫る。散々痛めつけられ宝物であるフィギュアを壊されたくないオタクは、わかったわかったよぉと言い泣きながらウジ虫付きのメロンを頬張る。それを見て気持ち悪くなった鷹場は、てめぇ変なもん喰ってんじゃねぇととどめのみぞおち蹴りを入れる。
理不尽過ぎて笑っちゃいます。
あとおそらく本作一番の山場である、サディスト国光(鷹場側)と被害妄想八つ当たり男鉄吉(大黒側)の罵り合いも面白いです。
国光「お前には粗大ゴミより生ゴミがお似合い、いや肥料になる生ゴミももったいない。そうだ、臭くて汚くて再生不能の厄介者のお前なんぞはさしずめゲロと痰に塗れたコンドーム、いいやそれならホームレスが拾って使うかもしれないから、ゲロと痰に塗れた上に破れたコンドームってところだ」
鉄吉「あーあーあー確かに俺はゲロと痰に塗れた上に敗れて、ホームレスにさえそっぽを向かれるコンドームだ。アキレス腱を断裂した陸上選手、インポになったAV男優、賞味期限の切れた牛乳だ」
イカれ具合一、二を争う両雄の戦い―名勝負数え歌をここでやめさせるのはもったいない。
笑わせようとしてるでしょ新堂先生?!名勝負数え歌って、どっちが長州?
でも『これはやりすぎだろ』とつい吹いてしまうことは、過剰表現を滑稽に思うという意味合いの他に、自分の脳では処理できない過剰な暴力を見たときの防衛反応なんでしょうね。実際、鷹場だろうが大黒だろうがこんな人間が現実にいたらと考えると家族や友人の安全を心配する毎日が続くでしょう。何せ、こっちに非がなくても依頼があれば親でも制裁しに行くような奴らです。だから、こんな鬼畜どもが同じ世界に生きていることを否定したいから、笑って、いねーよこんな奴とうそぶくんです。
あと新堂先生ってたまに会話文がおかしくなってますね。不自然な日本語がたまにあります。そういうミスというか違和感が血と暴力まみれの小説を少しだけ柔らかくしています。
やはり白新堂より黒新堂です。