・トンデモ本のローカル化
ネットでその存在を知ってからずっと読みたかった本が日本から届いた。原田実氏の『江戸しぐさの正体-教育をむしばむ偽りの伝統』である。
江戸っ子たちの行動哲学とも言われ現代では教育現場にも取り入れられている『江戸しぐさ』がそもそも一人の老人の与太話だと喝破したのが本書である。
私はこの本をネットで見かけるまで『江戸しぐさ』など聞いたこともなく、またそれがどれだけ胡散臭い代物なのかも知らなかったが、要するに史料が現存していないことを口実にありもしない江戸時代の礼儀作法を広めている運動だと知ってふと思った。『江戸しぐさ』関連の書籍を中国で売ったらそこそこ売れるんじゃないか、と。
中国には日本でニセ科学やニセ健康本(以下、トンデモ本と統一する)というレッテルを貼られた本が翻訳されて正式に売られているのである。
例えばトンデモ本としては酷く有名で本書『江戸しぐさの正体』でも取り上げられている江本勝氏の著書『水からの伝言』は『水知道答案』という名前で、また牛乳有害論を展開した新谷弘実氏の著書『病気にならない生き方』は『不生病的活法』の名前で今でもアマゾンに売られている。そしてレビュー数が多く、また評価も高いのである。
(まぁ中国のアマゾンは「配達が早かったので星5つ」とか「本の紙質が悪かったので星1つ」とか、ひいては「配達人の態度が悪かったから星1つ」とか全く内容に言及していないレビューが多いのであまり信用できないが……)
もちろん日本と同様に本の内容に反対する意見はあるし、既に日本の評判を知っている読者や識者はこれらを『偽科学』と否定した。
(ちなみに『ニセ科学』は中国でも『偽科学』の名称で通じる)
しかし『水からの伝言』のように普通なら見えない『心』が科学の形を借りて見られるという事象は中国人も好きなようで、2011年広州のとある小学校ではご飯に綺麗な言葉と汚い言葉を浴びせて腐敗の経過を観察するいわゆる『ご飯実験』も行われたらしい。
2011年11月5日 広州日報(中国語)
(どうでもいいけど江本勝氏とその共鳴者が琵琶湖を清浄化させたという実験について日本語より中国語のHPが多く引っかかるのは何故なんだろう)
・江戸挙止という現代中国語
実は『江戸しぐさ』という単語は既に中国語になっている。
『しぐさ』を『動作』や『態度』などそれらしい漢字に翻訳してネットで検索していく中で以下の書籍が見つかり訳語が判明した。それが坂東眞理子氏の『父母的品格』(親の品格)である。
2009年に出版されたこの本では『江戸しぐさ』は『江戸挙止』と翻訳されている。更に調べると台湾では越川禮子氏と林田明大氏の『「江戸しぐさ」完全理解』が『徹底理解「江戸風範」』のタイトルで出版されていることがわかった。つまり中国人の一部は私なんかよりも先に『江戸しぐさ』の存在を知っていたということだ。
またネットには『江戸しぐさ』とは何かということや、『傘かしげ』や『逆らいしぐさ』などの具体例が中国語になっている。下記のURLを見ると日本人が中国語に翻訳している文章もあるが、日本のニュースを総合的に扱うウェブサイト『レコードジャパン』にも具体例を紹介する記事があった。
Lang-8 江戸挙止(中国語)
Record china(中国語)
そして意味だけではなく実際に『江戸しぐさ』を中国人に教えていると思われるHPが見つかった。
上海に支部を置く一般社団法人日本環境創造者協会(日本環境クリエイターズ協会)の理事が自己紹介で『江戸しぐさ』について言及していることから推測するに、中国人の日本語学習者に礼儀作法として『江戸しぐさ』を教えていると思われる。
・日本語教材としての江戸しぐさ
そもそも外国人に日本文化を教えるのに当たり江戸時代という一時代は彼らの興味を惹くものかと思われる。更に江戸時代の歴史文化を教える過程で日本の礼儀作法までも教えられるのだから『江戸しぐさ』はそれが嘘八百だとしても教材としては最適だろう。
だから私は『江戸しぐさ』関連の書籍が教養本として中国で出版される日はそう遠くないと思う。そしてその時に『江戸しぐさ』の虚偽を指摘した原田実氏の『江戸しぐさの正体』は実は邪魔にはならないのだ。事実、『水からの伝言』こと『水知道答案』は2009年に中国語版が出版されているが、その時には日本では反論本である『水はなんにも知らないよ』が出ているし、と学会にも取り上げられており日本では既に胡散臭がられていたにも関わらず中国ではベストセラーになっていたのだ。
一定の売上が見込めるベストセラーが中国語訳される以上その中にトンデモ本が混じるのは当然だが、その反論本が翻訳されているという話は聞いたことがない。
だからもし中国の出版社が『江戸しぐさ』関連の書籍を販売した時は是非ともそのカウンターパンチとして他の出版社から『江戸しぐさの正体』の中国語版を出版してもらいたい。