久々に中国ミステリ以外の本のレビューをば。
本書は2004年に出版され中国科幻銀河賞特別賞を受賞した古代中国を舞台にしたSF小説です。実はこの本にクトゥルフ神話要素があると教えられて期待して読んだわけなのですが、単なる歴史小説として十分楽しめた一冊でした。
楚の若者韓信が師匠から習った剣術も自身が持つ天賦の才も胸に秘める野心も発揮できず悶々としていたところ神の使者を名乗る黒衣の怪人・滄海客が現れ、十二年後に自分では乗り越えられない局面に遭遇したとききっと私の主を頼ることになるだろうという予告を受ける。それから始皇帝が死に秦国が滅び、項羽の下で働いていた韓信は漢王劉邦の下に移ったがそこでも不遇をかこち、劉邦の下では到底出世できないと絶望していた。だがそこへ十二年前に出会った黒衣の男が現れ、自分の主ならば韓信の今の状況を好転できるがその代わりにお前は天下を支配して主のために働けと契約を迫る。彼との誓いを交わしてから、劉邦に重用されて戦場で功績を上げついには斉王にまで上り詰めた韓信のもとにまたもや滄海客が現れて約束を果たすように迫るが…
私は横山光輝の『項羽と劉邦』も読んだことがなく韓信についても全然知らなかったのですが卓越した能力を持ちながらそれを発揮できる舞台を用意してもらえなかった武将の出世の裏には人智が及ばぬ力が働いていたという設定には感心しましたし、史実通りに不幸な死に方をするのも仕方ないなぁと納得できました。だから劉邦から大将軍に抜擢されてから破竹の勝利を重ねて斉王にまでなるところなんて史実通りなのでしょうが展開はホラー小説そのもので、一体どんな代価を支払わなければならないのかとドキドキさせられました。
本書で描かれる中国史は神話の時代から韓信の時代に至るまで神によって統治された歴史で、過去に中国の覇権を握った始皇帝などの歴代の王すらもその神のために働く傀儡であったという絶望的な古代神話です。傑出した人物であるがゆえに神に選ばれた韓信は天意を受けて王の道を歩むことができますが、神の正体と真の目的に気付いてしまったため天意に背くことになります。
中国人から本書にはクトゥルフ神話要素があると教えられましたが作中には一度もクトゥルフ神話関係の用語は出てきません。ただ黒衣の死者・滄海客の主が遠い昔に空から降ってきた地球外生命体であり、海を拠点としていて中国神話の龍とも伏羲とも形容しがたい醜い姿をし、善神とは言えない存在であることが述べられていてクトゥルフ神話らしいといえばらしいです。ですが本家の邪神に比べて本書の邪神はだいぶ優しくて精神的な攻撃もしてこないし、クトゥルフ神話にありがちな発狂死という結末は誰も迎えません。作者がクトゥルフ神話を意識して書いたのかわかりませんが、歴史ファンタジーとして読んでも面白かったですし、何より『天意』というタイトルがとっても皮肉的でセンスを感じました。続編の『天命』にも期待できます。