タイトルの『80後、怎么办?』(文字化けしていないかな…)とは日本語に直訳すれば『1980年代生まれよ、どうする?』となる。日本が『昭和』と『平成』の年号で世代を分けているように中国では1980年代生まれ、1990年代生まれというふうに10年単位で世代を区切っている。ただし、主に使われるのは80後と90後、つまり現在の30歳代及び20歳代に対してだけで、50後(1950年代生まれ)とはあまり言わない。
本書は自身も80後である北京在住の文学博士の著者が中国の80後が現在抱えている精神的、金銭的、肉体的など多方面に渡る問題について悲観的に現状を書いている。一昔前は若者の代名詞だった80後も今は中国社会の一端を担う大人となっている。しかし、果たして彼らは現在幸せな生活を送っているだろうか。
本書に記載されている著者・楊慶祥が遭遇した家賃の値上がりや部屋の強制退去は中国で暮らす全ての一般市民(プチブル)が遭遇する問題である。そして大量の出稼ぎ農民工の存在や2010年に発生したフォックスコン連続自殺事件などプチブルにもなれない市民は更に生活に困窮しているのにその問題は表には現れづらく、多くの80後が社会に計上されていないと指摘する。
著者は現在の80後が豊かな時代に生きているように見えるのは仮初であると主張する。それは言論の自由がない国(正確に言うと自由より権力が強い国)に韓寒というペンでのし上がった著名作家が存在する矛盾を指摘していることに表れており、著者は韓寒が持つ勇敢さを認めてはいるものの「彼(韓寒)は「喋れないこと」と「喋れること」の間にある非常に安全な道を見つけただけだ」と切り捨てている。
面白いのが80後には文革のような自己と密接に関わる歴史的事件が存在しないと指摘していることである。確かに中国では2003年にはSARSが、2008年には四川大地震が起き北京オリンピックが開催され、そのどれもが中国のみならず世界中に知れ渡ったが著者は全てが一時的な事件に過ぎないとしている。四川大地震の際には多くの80後の学生が被災地に向かったが、それは歴史的に存在感がない80後がその空虚さを埋めに行っただけだと主張する著者の視線は冷たい。この存在の空虚さや歴史的繋がりがないという言い方はリオタールの『大きな物語の喪失』とも似ている。
本書の後半は80後の一般人とのインタビューになっている。女性博士、会社社長、独立を目指す会社員、家族もいるが夢がない会社員…彼らの口から出る言葉は過去、現在、そして未来に至っても不平不満ばかりである。女性差別、学歴差別、戸籍問題、高い物価などを上げ、苦労を経験した自分たちと比べて今の若い者は根性がないとボヤいて90後を羨ましがる。生活に根ざした不公平の解消を訴える彼らの声は悲痛ではあるがそれほど切迫感はないのはそれでも彼らが生活できているからだろう。
インタビューの最後には外資系に勤め、結婚し子どもがおり、趣味はマラソンで、深センの戸籍を持っていて生まれてこの方特に不自由を味わってこなかったリア充が登場する。この彼だけ書面でのインタビューだったようでここで彼が喋っていることにどれだけ正直さが伴っているかわからないが、前出の4人とは明らかに違う彼は他の80後が欲している幸せを持っていてインタビュー中に不満を口にすることはない。
またこの彼はもし自分が人より優っているのであればと前置きし、それは父母が努力をしたからだと答え、我々80後は50後や60後より幸せで、チャンスに溢れていろんな夢を叶えられる素晴らしい時代に生きていると少しも気後れせず主張する。
現在の80後は20代後半から30代後半ですでに家族を持っていてもおかしくない年齢だ。ましてや中国の平均結婚年齢は28歳だから一般的な80後はすでに社会の中核であり更に家族の中心として存在していることになる。そのような人間はもう自分たちの幸せの追求を諦め、前述のリア充の父母のように子どもの幸せのために働くべきだろうか。だけど今の社会状況では親が抱える不平等は子どもに移るので、並大抵の努力では不自由を解消することはできない。
やはり自分たちの幸せを見つけることが大事ではないかと思うが、そのような小さな幸せ、例えば趣味とかはリア充の80後のように満ち足りていてようやく見つけられる。人はどんなに幸せな状態にあっても更なる幸せを渇望するが、根本が不幸な人間にはそれ自体不可能かも知れず、80後の環境を改善しなければ今後中国社会にはますます不平等感が蔓延するかもしれない。