我不是潘金蓮・劉震雲著(邦訳:私は潘金蓮じゃない・水野衛子訳)
読んだのは中国語版です。念のため。日本語版は水野衛子訳で彩流社から出ています。
2016年11月に中国で公開された同名映画の原作小説です。主役に范氷氷(ファン・ビンビン)、監督に馮小剛(フォン・シャオガン)というビッグネームを起用しているので日本でも有名かと思いますが、恥ずかしながら私はこの映画に全く興味を持たず、原作も知らなかったため、街でポスターを見ても「潘金蓮?なんで今更『金瓶梅』にスポットを当てるんだ?歴史映画か?」という間抜けな感想しか抱かなかったです。
その後友人から「どうやら映画と原作でラストが異なるらしい」という話を聞いても「当時の風俗描写とかが引っかかったのかなぁ」とまたしてもズレた予測しかできませんでした。
それから偶然、この作品が現代を舞台にした上訪(人民が直訴のため中央政府のある北京に来ること)小説だと知り、NG表現があるのであれば読む価値があるなと思い、原作を手に取った次第です。
農村の女性・李雪蓮は夫の秦玉河との間に二人目の子どもを授かる。当然、一人っ子政策に違反しているわけだが罰金やその他の不利益から逃れたい二人は偽装離婚をしてその間に子どもを産むことを提案し離婚届を提出する。しかし離婚中に秦玉河が別の女性と結婚してしまい、偽装離婚が本物の離婚となる。これに怒った李雪蓮は秦玉河を責めるが彼から「お前初夜のとき処女じゃなかっただろ、この潘金蓮め」とあまりに酷いセリフを吐かれる。そこで李雪蓮は離婚が偽りであること、そして自分は潘金蓮ではないことを証明するため、県、省をまたぎ最終的には北京市で開かれている全国人民代表大会(全人代)の会場まで「告訴」をしに行くのであった。
そもそもの話、一人っ子政策に違反して偽装離婚を企てる李雪蓮が悪いのですが、では一人っ子政策に違反しているから子どもを堕ろすこと、または罰金を払って産むことが正しいのでしょうか。それは中国政府にとって正しいことでしょうが、本当に正しければ李雪蓮だって素直に従っていたでしょう。
このようにこの作品では中国で当然のように罷り通っている「正義」や「ルール」に対し疑問を呈しています。
小説は「1年目」と「20年後」に分かれ、「1年目」で全人代まで乗り込んで大勢の政府役人の首を飛ばすことになった李雪蓮の存在は中国全土に知れ渡ることになり、以降動く爆弾のように扱われます。そして「1年目」より更に大規模な全人代が開かれる「20年後」に市長や県長や裁判所の所長ら大物が李雪蓮のところへやって来て、散々告訴に来るかどうかの確認をさせられた結果、彼女は「あんたらがあんまりにもしつこいから今年も北京に行ってやる!」と啖呵を切ります。
翻訳者の水野衛子さんは自身のブログで、訳しながら李雪蓮の行動に感心したり応援したりしたと書いていますが、私はむしろこんな女性に関わることになった役人連中に憐れみを覚えてしまいました。
そもそも、「偽装離婚だったのに本当に離婚させられた、訴えてやる!」って案件、「行列のできる法律相談所」で扱う程度の内容でしょうに。そりゃこんな案件真面目に引き受けたくありません。しかし、彼女の訴えに正当性があろうがなかろうが、最終的に誰が彼女を評価するかによって、形勢はオセロのようにひっくり返るのです。この「鶴の一声」の威力と、同じ案件なのに担当者によって対応が異なるという中国の役所の仕事ぶりを端的且つこれ以上ないほど恐ろしく、そして面白く描写したのが「1年目」でした。「1年目」の終わりに、自分の訴えに見向きもしなかった役人がまとめて首を切られたとき、李雪蓮はそれが仏様の御業によるものと理解して神仏に感謝しますが、読者の目には上訪よりよっぽど危険な行為に映ります。
ただ、「20年後」を読み進めると李雪蓮の弱さが垣間見えてしまって可哀想になり、彼女を応援するとともに、彼女の行動に右往左往する役人たちがもっと困れば良いと思ってしまったのも事実です。
しかし読んでいてよくわからなかったのが、李雪蓮の上訪を阻止する役人たちが彼女から貪官汚吏(汚職役人)と言われていて、中国人のレビューでも依然としてその言葉が使われていることです。貪官汚吏は悪いことをして私腹を肥やす腐敗分子と思っていたのですが、人民に奉仕しない役人のことも指すのでしょうか。
ちなみに私は上訪する人が怖くて仕方ありません。
以前、息子を誘拐された母親があらゆる手を尽くし、借金を重ね、夫に呆れられてもなお子どもを探し続けましたが、ようやく見つけた子どもは既にいい年になっていて彼女になつかず、学校卒業と同時に姿を消したという悲しいニュースを見かけました。
http://www.afpbb.com/articles/-/3006789
自分にはこの母親より息子の気持ちがわかります。息子は、17年間自分の体を壊してもなお失った息子を探し続けた母親が恐ろしく、そして気持ち悪く思ったことでしょう。
ルポライターの田中奈美さんは著書『北京陳情村』で陳情村(上訪するために北京に来た人々が集団化してできたコミュニティ)の人々が実は狂っているんじゃないかと疑っていましたが(うろ覚え)、私も同意します。
何故上訪する人は怖いのでしょう。それは彼らが不自由な生活をしながら権力や世間と戦っているからです。この中国という国で「戦っている」こと自体に私は引け目を感じます。そして傍目には勝ち目のない戦いに身を置いている彼らのことがやはり狂っているとしか思えないのです。
では李雪蓮は狂人でしょうか。それは違うと思います。何故なら彼女は納得いかない結果ではありますが「1年目」で成果を収め、それから十数年の間ずっと役人を翻弄していた「勝者」だからです。だからこそ私は、たった一人の農村の女性に虐げられる側に回った役人側に同情してしまいます。
ちなみに、友人が教えてくれた映画と原作でラストが異なるという話ですが、原作を読む限りこれのどこが検閲に引っかかったかわかりません。やはり映画を見て確認するしかありませんね。