五道口貼吧故事 著:賀奕
9つの短編からなる本書には北京の有名な学生街である五道口で発生した事件が貼吧(BBS)や微博(マイクロブログ)、微信(ウィーチャット)や他のSNSで不特定多数の第三者によって勝手に説明、解釈、推理されていく様子を描いた日常系の小説です。実際の貼吧や微信などの形式を流用していて従来の小説と構造が異なっているだけではなく、主人公もいないどころか小説の大半がコメントやニュース記事なのでけっこう実験的な小説と言っていいかもしれません。
五道口についてちょっと説明しますと、この地域は地下鉄の五道口駅を中心にしてショッピングモールやレストラン街が立ち並ぶ学生街です。また、北京語言大学を始めとした大きな大学が周辺にあり、各大学からの交通の便も良いのでその大学に通う外国人がたむろする留学生街でもあります。
外国人向けのバーやクラブやレストラン等も少なくなく、特に留学生の数が多い韓国人向けのお店が目立ちます。日本人向けなら、去年惜しくも閉店したとんかつとカレーのお店『ばんり』や日本語の漫画が読める現在休業中のマンガ喫茶『B3』、安い値段でそこそこの寿司などを食べられる『一心』などがあります。
ただし五道口は今でこそ深夜でも開いているお店が多いですが、十数年前はかなり辺鄙で治安の悪い場所だったようで、実際に日本人男子留学生が五道口で行方不明になる事件も起きています。(現在も行方不明のまま)。
また、私が留学していた時代には2008年か2009年に韓国人の女の子が黒車(白タク)の運転手に強姦されて殺されるという話を聞いたことがあります。この話は真偽不明ですが当時の私は本当に起こったことだと信じていました。
本書はその五道口で起こった殺人事件やニュースサイトに取り上げられた三面記事などがインターネット上で姿の見えない情報発信者たちによってどのように伝播されていくのかを書いていますが、別にインターネットやSNSの影響力の強さを書いているというわけではありません。
作中では犯人の素性を暴けみたいに鼻息の荒いコメントが出てきますが、それらの反応が現実に反映される様子の描写はなく作品世界はネットのみで完結しています。毎日BBSやSNS等に貼り付いている人間の大半は新しいニュースに一喜一憂し、自分たちが予想だにしなかった真相に驚くだけの受け身なのですが、その中にはまだ公にされていない新事実をアップする存在もいます。第三者だけが集まって喧々諤々と限られた情報について喋っているところに新しい情報をもたらしてくれる情報提供者は重宝されますが、その正体を考えると今度はそちらに興味が向かいます。
本書ではこのような事情を知る人間のコメントを出してホラー風味を付け足していますが、その他に明らかになる真相というのが本当に意外なので、伏線のない新事実の後出しはアンフェアではあるもののミステリとしてもまぁまぁ楽しめました。