本書は左灯という1990年代生まれの女性が、うつ病になって2017年9月に精神病院に入院してから経験したあまりに個人的な出来事とあけすけな気持ちを書いた入院日記だ。もともとはリアルタイムでネットにアップしていたブログであり、ブログと本書を読み比べると収録されていない内容もある。本書に彼女の具体的な年齢は書かれていないが、2019年で27歳だったそうだから、入院時は25歳か。
自分は中国どころか日本の精神病院のことも知らないので日中の事情を比較することもできないが、それにしたって本書で記されている中国の精神病院内の様子には色々とカルチャーショックを受けた。スマホ持ち込み可(ただし充電は看護師の許可が必要)という自由があるのも驚いたが、患者の家族も付添で入院可能という体制には、よくトラブルが起きないなと感心した。また患者同士の距離感がとても近く、おしゃべりなオバサンとの会話に付き合うという日常の延長のようなアクシデントもあれば、娯楽に飢えている患者たちに恋愛模様を野次馬されるという中学校のような恥ずかしい場面もある。しかもそれは著者と他の入院患者の家族なのだ。他にも、入院した精神病院の治療法が書かれているが、漢方薬入りの足湯や耳つぼといった効果不明な中国らしいものから、磁気、ダンス、そして電気ショックという直接的なものまで揃っている。特に電気ショック(日本では電気けいれん療法というらしいが)は日にちや家族まで忘れてしまうというデメリットがあるが、嫌なことが忘れられるため彼女はこれにハマってしまったのだという。
突然精神病院に入院し、手元にスマホがあった左灯には、精神病に対する偏見をなくす、精神病院の問題点を改善するなどの意識はなく、入院中あった出来事を赤裸々に書いていくだけだ。患者仲間との日常会話や、患者の同伴家族男性との恋、隠れてタバコを吸ったことなど、入院しているということを除けば、比較的自由な院内環境が彼女の文章から見えてくる。だがそもそも入院したくてしているわけではないので、文章の端々からは不安や怒り、そして誰に対しても自分の意見を押し通そうとする強いエゴが感じられる。
抗うつ剤が1錠50元(約800円)と高額で、毎回人民元を飲んでいるようだという感想からも分かる通り、彼女が正直すぎる日常を書いている。日記形式なので自分本位なのは当然なのかもしれないが、医者の悪口を書くばかりか、自分の家庭環境の問題も包み隠さず公開しているのは心配してしまう。
彼女の両親は娘のことは大切なようだが、精神病に対する理解や知識は、彼女の目から通してみると乏しい。父親は入院に同伴するほど優しいが正直言って過保護であり、娘を子ども扱いしている。母親の方は娘の病気を真剣に考えていないようで、退院後まだ不安定な娘を連れて正月の親戚参りをする。しかもその理由が、顔を見せないと何かあったと疑われるからだという。そしてこの家族最大の問題は養子で、彼女にとっては義理の兄に当たるこの男が前科持ちの正真正銘のクズ。彼女は縁を切りたいと思っているのに、この兄はそれに応じず、父親も息子をかばうという、彼女にとっては四面楚歌の状態だ。退院後の彼女は無職なので実家に戻っているのだが、家に自分の味方をしてくれない家族がいるのなら家を出たほうが良いと思う。とは言え彼女のうつ病は仕事が原因なので、家族の問題は関係ないかもしれないが。
本書を出版した2019年時点で彼女はまだ完治していないが、自分の病ときちんと向き合っているようで、その方法も個性的だ。自身のうつ病に「マリオ」という名前をつけ、そうすることで病と仲良くなろうとしている。だが表紙の黒い犬こそマリオであり、裏表紙にはその首を引っ張る真っ黒で小さな女性が描かれており、まだまだ飼いならせていないどころか、うつ病をますます大きくさせてしまっているように見える。
自分のことだけではなく家族についてまで遠慮なく書く彼女の姿勢に思わず永田ガビを連想してしまい、左灯の今後が心配になった。彼女がもし2作目、3作目を出すことになったら、それは歓迎すべきだろうか。
長いと言われたので二つに分ける。
この本にはあと2人、性暴力の被害女性が登場する。1人は房思琪と劉怡婷にとって姉のような存在で、夫に家庭内暴力を振るわれている許伊紋。もう1人は以前李国華に強姦された郭暁奇だ。房思琪と違うのは、彼女らが加害者や社会に対して声を上げたということだが、その声は結局かき消される。
許伊紋は意を決して夫に、これ以上の暴力はやめるよう訴え、一度はそれを聞き入れられる。だが、大体のDV被害者同様にまた殴られ、取り返しのつかない怪我を負う。
郭暁奇は自分を捨てた李国華に反撃しようとネットに投書するが、返ってきたのは心無い罵倒ばかりで、李国華にダメージを与えることはできなかった。
彼女たちの口を閉じ、声を無視したのは一体何なのか。この本を読むと、世の中には一体どれだけ「完全犯罪」の被害者がいるのかと暗澹たる気持ちになる。
実話を基にしているとは言え、結局は「物語」だ、と読者は逃げることもできたかもしれない。だが著者の林奕含はそれを許さずに先手を打ち、劉怡婷の背後に読者を据えて、許伊紋にこう言わせる。「あなたは、強姦を楽しむ人間も、強姦された少女も存在しない振りをして生きていくこともできる」。このように言われ、知らない振りをしようとする者はいないだろう。だが、振りをしないためにはどうすればいいかと考えた時、やはり「そんな人はいなかった」と考えてしまう人が大半なのではないだろうか。
例えば李国華がAVなどに触発されたとか言っていれば、分かりやすい犯人探しもできただろう。だがこの本が挑戦しているのは、すでに形成されて確固として揺るがない社会だ。文学を愛する房思琪と許伊紋が被害者のままだったというこの文学作品が、どれだけの力を持って社会に立ち向かえるのか分からない。
日本でこの本がどれだけ受け入れられるか不明だ。過激さ目当てに売れたら嫌だなぁと反射的に思う反面、台湾でベストセラーになった要因はセンセーショナル性も確かにあったと思うので、あまり上品なことを言えば、それこそ既存の社会制度に与することになるのかなぁと悩むところだ。
日本語に翻訳されるということだったので、もし自分が翻訳したら…と考えながら読み進めたシーンもあるが、その作業によって他人には見せたくない心の内をさらけ出すことになるとは思わなかった。例えば李国華に強姦される少女らが「不要不要」と抵抗するシーンをどう訳すか考えた時、自分の頭の中の棚を漁って類義語や類似したシーンを取り出そうとすると、人に知られたくないものばかり出てきて、これをそのまま使うのは流石に気が引けるなと思った。
2017年に台湾で出版されベストセラーになった、実話を基にした性暴力被害告白小説。10月24日に日本語訳が出たということなので、大陸向け簡体字だがノーカット版の原著を購入し、読んでみた。読後は、無力感と言うか絶望感と言うか、何かやらなきゃいけない義務感に駆られるものの、何をしていいんだかよく分からない焦りを感じた。
(日本語版書籍の情報は下記URLから)
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b479960.html
台湾高雄の高級マンションに暮らす房思琪と劉怡婷は双子のように仲が良く、好みも同じで、文学少女の2人は共に、同じマンションに住む50代の国語教師・李国華に憧れに似た恋愛感情を持っていた。房思琪は13歳の頃、李国華に勉強を教わりに行き、彼の部屋で強姦される。その後、房思琪は李国華の「愛」から抜け出せず、親や劉怡婷にも言い出せず、異常な関係を続けていく。表面上はなんでもないように見える房思琪だったが、奇行や不眠症など身体に異常が出て、彼女の精神は徐々に蝕まれる。5年後、精神を患って入院した房思琪の部屋を訪れた劉怡婷は、彼女の日記を見つけ、そこで初めて房思琪と李国華の関係を知る。全てを知った彼女はある決意を秘め、李国華の家に向かう。
まず最初に、自分はこの本を読むまで、房思琪が強姦を誰にも相談せず、李国華と関係を続けていく理由を、暴力や脅迫によって口が封じられているからだと思っていた。しかしすぐに、事実はそんなに単純じゃないことを思い知らされる。
この李国華という男は、教養があり、既婚者で、話し上手で、それにもう50歳ということもあってか、誰からも「男性」として見られず、性犯罪者だと疑われることがない。また、房思琪と劉怡婷も彼のことを「男性」と思っていないから、警戒せずに部屋に招かれる。彼女たちの両親も李国華のことを信用しているので、彼をよく自宅に招いて一緒に食事をしたりする。
李国華は最初の強姦以外、房思琪に対して特に明確な暴力を振るわないし、脅迫することもない。さらに時には、13歳の房思琪に押し負け、愛の言葉を強要され、優位に立たれそうになる。
強姦という犯罪で成り立っている関係性、37歳差、既婚者と中学生など、何もかもが異常であるが、美しそうに見える一瞬だけを切り取ってしまったら、このような関係も有りなのではと思ってしまいかねない。だが、徐々に精神を病んでいく房思琪自身が発する不協和音が、このような関係を絶対に許してはいけないと訴える。
李国華は少女を強姦することを悪いことだと全く思っていないようだ。最初の強姦時に房思琪に言い含めた「これは愛だ」という言葉を、彼自身が信用しているのかもしれない。サイコパスという表現はだいぶ陳腐になったが、強姦後の李国華の行動は常人には理解不能で、彼は事件後も平然と房思琪に家に行き、家族で一緒に食事をしたり、相変わらず彼女に勉強を教えたりする。
李国華の自信の源は、「これまで反抗した子は一人もいなかった」という彼の言葉にある。李国華にとって房思琪が初めてではなく、今まで一度も表沙汰になったことがないのだ。
李国華に自信を与え、彼の成功体験を重ねたのは何か。その原因の一つは、性暴力の存在を認めようとしない社会だ。房思琪は当初、李国華とあったことを母親に相談しようとしてそれとなく聞いてみるが、娘に性教育はまだ不必要だと考えている母親に理解してもらうのを諦め、この話題は二度と出すまいと決意する。
房思琪が口を閉ざし、李国華がますます厚かましくなった結果、房思琪と房思琪の母親、劉怡婷の母親、そして李国華が一緒に寿司を食べ、大人たちの談笑を無視して房思琪が黙々とバラン(食べられない草)を食べ、誰もそれに気付かないという下手なホラー小説より恐ろしい光景が生まれる。
目の前に自分を「殺した」男がいて、それが家族と仲良くしていることが子どもにとってどれほどのストレスになるのか。心のバランスを取るためか、房思琪は既婚者の李国華が本当に自分を愛しているのか確かめようと愛の言葉を求めるが、一方ではどんどん精神に異常をきたしていく。そして結局彼女は、5年前のあの事件以来予定されていた最悪な結末をとうとう迎えることになる。
その2に続く
非常に不可思議でとらえどころのない小説。推理小説のジャンルとして売られており、作中で殺人事件などは発生するのだが、推理小説の謎解きの妙味は全く感じられない。本人の「分身」が身代わりに出頭する。カラスに化けられる(人間に化けている?)女性が出る。おそらく中国が舞台なのに、オーディンやムニン、カフカといった名前のキャラが出てくるなど、非現実的で常識からかけ離れており、全体的にフワフワしている世界観だ。決して面白くないわけじゃないが、じゃあどこが面白いのかと具体的なポイントを全く示せない。村上春樹的小説とシンプルに例えることは可能だが、合っているとも決して言えない。
現実世界は2つに分かれている。1つは誰もが実際に感じる世界。もう1つは封印されている「記憶」という暗黒。分身は仄暗い奥底から生まれ、自らの役割として暗黒の世界に閉じ込められる。
世界で神秘的な存在である「オーディン分身事務所」は、人々が分身を必要とする時、暗黒世界の門を開け、暗黒の力を解放する。分身を必要とする人は事務所と契約を交わし、記憶の一部を差し出す…都市に生きる様々な人々には愛と苦しみ、殺人と復讐があり、分身の介入によってますます混迷を極めていく…
これは本書に掲載されていたあらすじだ。これだと、「オーディン分身事務所」が話の筋になって、事務所にいろんな依頼人が訪れるというオムニバス形式の小説に見えるだろうが、むしろ事務所の人間が彼らに会いに行くのだが、その会い方も不可思議だ。ムニン(北欧神話に登場するカラスと同じ名前)という名前の女性は、カラスになって人々の元に訪れ、死刑囚の元にまで行ける。作られた分身は罪をかぶったり、死者の代用品として役割を果たす。
一つのマンションを舞台にして、同性愛者、愛人、養女など複雑な背景を持つ人々が登場するが、群像劇と言える展開にはならず、どいつもこいつも自己完結して死んでいってしまう。
結局の所、レビューにまとめられるような具体的な内容ではなく、あらゆる話が放射状に広がり続けて煙のように空に消えていってしまう、まさに雲をつかむような話だった。だが不思議と魅力があり、珍しく2度も読んでしまった。この本がどういう経緯で出版されたのかは知らないが、宣伝一つで売上も評判もだいぶ違っただろう。次は純文学やエッセイを出せば絶対売れると思うので、今後も活動は続けてほしい。